私のふるさと

 今日は午前中、都内でラジオ番組の収録がありました。
昼過ぎにその仕事が終わって、夕方の大多喜での会議まで少し時間が空きましたので、板橋の私の実家を訪ねてみました。
板橋は私が4歳から大学卒業まで過ごした場所で、木原線と同じ昭和5年生まれの私のお袋が今でも一人で住んでいますので、母の日に顔を出せなかった分、今日は懐かしい商店街でお昼ご飯を買って、久しぶりに一緒に昼飯を食べることにしました。


ここが私が育った町。
私のふるさとです。
すごいでしょう。
高速道路が二重三重になって、右へ左へと走っています。
もちろん、私が子供だった頃には高速道路はありませんでしたが、ここまで変わってしまうと、当時の面影を探すのが難しいですよね。

消防署と警察署が並んでいるちょうど裏手に当時の私の家がありました。
K察嫌いは育った環境にあるのかもしれませんが、でも、当時はよくお巡りさんに遊んでもらっていたんです。ウソみたいでしょう。昭和40年代ですからね。
この広い通りは、「電車通り」と呼ばれていました。
都電が走っていたからですが、その都電がなくなって、2年後には地下鉄が走るようになりました。
だから今でも「電車通り」ですね。
ベージュの建物が消防署ですが、その手前にあるこげ茶色のビルとの間に地下鉄の通風孔があるのですが、地下鉄が開通する前までは、そこが私の遊び場だったんです。
というのも、地下鉄が開通する数か月前のことでしたが、私が遊んでいると、その通風孔の下の方から、生暖かい空気が出てきて、ゴーッという音が聞こえてきたんです。
地下鉄が開業に向けて試運転を開始したことを、この通風孔から知った瞬間ですね。
小学校2年生の時でしたが、駅がオープンする前のまだ見ぬ地下鉄電車に大きな夢を見させてもらったんですね。



この町は歴史的にも古く、いろいろ観光的な要素もあるのですが、自分が育った町ですから、当時はそんなことあたり前で気にも留めませんでした。
商店街へ行って見ると、よく通った銭湯が当時のままの姿で今も残っていました。
中学生のころの私は悪ガキでしたから、「銭湯へ行ってくる。」と言ってタオルと風呂桶を持って家を出ると、そのまま池袋へ遊びに行っちゃうんです。
タオルと風呂桶が邪魔だから、銭湯の下駄箱に突っ込んで、下足札をポケットに入れて友達と一緒に自転車で池袋に遊びに行って、銭湯が閉まる直前の11時45分ぐらいに戻ってきて、10分ぐらいでサッと風呂に浸かって、深夜に家に戻るのです。
風呂へ行くと言って出たまま3時間近くも帰ってこないのですが、帰ったころには親も寝てるし、そのうち「アキラはお風呂が長いから。」などと言われるだけになって、まあ、そんな中学生ですから、一言で言うと馬鹿だったんですが、その銭湯が今でも当時のままで残っているのですから、自分自身恥ずかしい気持ちになるのです。
トミーテックの街並みシリーズそのままでしょう。
これが私のふるさとですから、今、いすみ鉄道沿線が「とてもいいところだなあ。」と心底思いますし、「どこが良いのですか?」と聞かれたら、迷わず、「ここには何もないですからね。それが良いんですよ。」と言うわけです。
85歳のお袋と昼飯を食べて、車で大多喜に向かいました。
西池袋から首都高に入って、新しくできたトンネル区間を大井まで走って、羽田空港、アクアラインを通って大多喜まで1時間20分。
今日は道路が空いていたからですが、毎日佐倉から通うのと同じ時間で東京から大多喜へ行かれるというのは、時代が変わりましたね。
そして、大多喜で夕方会議に出席したんですが、思ったことは、「やっぱり、田舎の方が良いなあ。」ということ。
こういうところで育った私としては、本当に地方の良さが身に染みるわけなのです。