昭和の航空時刻表考察 その2

日本航空は国策で国内線の幹線と国際線を受け持っていた時代に、全日空は国内線を任されて飛んでいました。
昭和50年3月の全日空時刻表です。

全日空は日本航空に比べると路線数や便数が多く、時刻表も分厚くて、日本航空が1枚のペラだったのに対し、全日空は当時でもすでに十数ページに及ぶ冊子になっていました。
このころは飛行機マニアだった漫画家のおおば比呂司さんのイラストが毎月楽しくて、楽しみにしていました。
表紙には「サービスキャンペーン実施中 3月15日まで」と書かれていますが、2月から3月初旬までの期間はお客様が少ないので、その時期に乗っていただくためのキャンペーンなんでしょう。表紙の絵に描かれている通り、「搭乗整理券を3枚送ると、スチュワーデスエプロンかトライスターのゴルフボールがもらえます。」という内容でした。
3枚というのがミソで、1回の旅行で2枚だとすると、2回旅行しなければなりませんから、「3枚送れ」ということは4回乗るのと同じことなんですね。同じ時期の日本航空ではこのようなキャンペーンなどありませんから、なかなか戦略的で楽しい会社だったことがわかります。
実はこの年の3月10日に、それまで岡山止まりだった山陽新幹線が博多まで開業したのですが、このキャンペーンは新幹線を意識しているとは思えないところが当時の航空会社だったんですね。
新幹線と飛行機がお客を奪い合うなんて発想がそもそもなかったんでしょう。今同じことが起きるとすれば東京から広島や福岡、大阪―福岡など当然利用促進キャンペーンを行うはずですが、開業直後の15日でキャンペーンが終わっているのは、まったく新幹線を意識していなかったということです。航空会社だけでなく、お客さんの方もまだまだ飛行機は一般的な乗り物ではありませんでしたので、「どちらにしようかな」的な選択はなかったんですね。

さて、表紙をめくると飛び込んでくるのが自動車の宣伝。これはダイハツのシャルマンです。小川知子さんが「ウィ、シャルマン」って言ってましたね。
次のページは目次で、就航地は札幌、函館、秋田、山形、仙台、八丈島、三宅島、大島、東京、名古屋、福井、富山、小松、南紀白浜、大阪、高松、高知、松山、岡山、広島、宇部、鳥取、米子、大分、北九州、福岡、壱岐、熊本、大村(長崎)、福江、宮崎、鹿児島、奄美大島、沖縄です。
日本航空に比べるとずいぶん各地へ飛んでいるのがわかりますが、例えば北海道は札幌と函館だけで、旭川、稚内、紋別、中標津、釧路、帯広などはありません。これらの地域は、東亜国内航空の就航地で、できるだけ競合することなくきっちりと棲み分けをすることで、経営的な安定を図るという運輸省航空局の行政指導が強く働いていた証拠です。

目次の下段には機種と機内食、そして時刻表の見方が書かれています。
当時の全日空はTR-トライスター、B2-ボーイング727-200、B3-ボーイング737、O-オリンピア(YS11)の4種類の飛行機で、YS11も主力機として活躍していました。
機内食は朝食、昼食、夕食、軽食、そしてデラックススナックにビールがあります。
中学生だった私はビールには興味ありませんでしたが、デラックススナックには興味がありました。主として沖縄線や大阪―札幌などの長距離区間で提供されていたようですが、普通のスナックとはどう違うのだろうかなどと想像を膨らませるのが楽しかったことを覚えています。

それではページをめくってみましょう。
札幌-東京の便は当時の最新鋭機トライスターが主に運航されています。
日本航空も全日空もこの1~2年でワイドボディーの大型機が国内線に導入され、東京と札幌を結ぶ便は各社ともほぼ1時間に1本。つまり毎時800人を輸送する能力を持っていたことになりますから、東北本線の特急から青函連絡船に乗り換えて札幌へ行くというルートは、当時すでに飛行機に主役の座を奪われていたことになります。ただ、飛行機というのは一度乗ってしまえば快適さは理解できるのですが、最初のハードルが高い乗り物ですから、当時はまだ飛行機という選択肢がない人たちがたくさんいたということで、今思えば東北本線の特急列車や夜行の急行列車などが最後の賑わいを見せていた時代だったことがわかります。
この数年後、昭和50年代半ばに入ると、上野からの夜行列車に利用率はグンと下がり、列車に乗るために上野駅で何時間も前からホームに座って待つ光景も見られなくなりましたし、昭和57年に東北新幹線が開業すると、北海道連絡の役目が終わっていた東北本線から東北行の特急、急行列車が消え去ることになったのです。


札幌、函館発着便の次のページは東北方面の秋田、山形、仙台発着便が掲載されていますが、その中で仙台空港発着便をご覧いただきましょう。
この時刻表を見て気が付くことはありませんか?
東京発仙台行801便は7:50に東京を出て仙台に8:35に到着します。
ところが仙台からの東京行802便はそれ以前の8:20に仙台を出てしまっています。
ということは801便で東京から到着した飛行機は、東京へは戻ってこないことになります。
この飛行機は、次は721便となって9:10に札幌へ向けて出発します。
飛行機は札幌到着後に722便で札幌→仙台に戻り、725便、726便として仙台―札幌をもう1往復、合計2往復して15:25に仙台に戻ると、今度は816便として東京に向かい、16:50に羽田に戻ります。
羽田のようにベースとなっている大きな空港は、時刻表上で飛行機を追跡することは不可能ですから、816便の次の便がどこへ行くかはわかりませんが、807・808便はB737の単純往復で、815・818便もB727が羽田―仙台を単純に往復する運用です。
そして最終便の817便は仙台に到着後、そのまま当直して翌日の朝1番の802便の機体となりますので、乗務員も仙台市内に泊まりということです。
この801便のような飛行機の運用を時刻表上で見つけた私は、だんだん面白くなってきて、いろいろなところを探し始めました。

こちらは八丈島便の欄ですが、東京―八丈島の時刻を見てみると、
821→822
823→824
825→826
827→828
831→830
と、八丈島で25分の折り返し時間でYS11がきれいなパターンで運用されていることがわかります。
ところが次の833便は八丈島に着いて折り返し834便になるのに50分も時間がかかっています。
私はこれを見て???と疑問がわきました。
ところがすぐその下に名古屋-八丈島の時刻が掲載されていて、その326便を見て「なるほど」と思いました。
326便は833便到着の25分後の15:20に八丈島を出て名古屋に向かっていますから、833便の飛行機はこの後名古屋へ向かうということです。
そして名古屋から飛んできた325便が15:20に八丈島へ着いて、25分後に834便として東京へ向かうのです。
この区間でちょうど飛行機を入れ替えているんですね。
そうなると今度は気になるのが名古屋へ飛んで行った飛行機はどこへ行くかということで、名古屋のページに目が行きます。

326便として八丈島から16:40に名古屋に到着した飛行機は、次の便がありませんから、おそらくのその日は整備を受けて停泊となるのでしょう。当時のローカル空港は夜間の運航ができないところが多かったので、17時過ぎに名古屋を出てどこかローカル空港へ飛んでいくとしたら、行った先で夜になってしまいますから、この日はこれで終わりだったのでしょう。
そして翌日、YS11は361便として8:10に名古屋を出て小松に8:55に到着。折り返し362便として名古屋に10:50に戻ってきます。
その後、11:15発の323・324便で南紀白浜を往復して13:40に名古屋着。そして325便として14:05に八丈島へ向かうわけです。
八丈島へ行った飛行機は、その後東京へ飛んでいくのは昨日と同じです。
そしてまた別の飛行機が八丈島から名古屋へ飛んできて、停泊した翌日のこのパターンを飛行するわけです。
これが飛行機のローテーションで、折り返し時間25分できっちりと飛行機を回していることがわかりますが、これは今のLCCも同じですから、1つ遅れが生じれば、ドンドン遅れが広がっていくのは当時も今も同じですね。
さて、この名古屋の時刻表を見てて気になるのが「小松→名古屋→小松」の1つ上にある「福井→名古屋→福井」。
今は福井空港便はありませんが、当時はまだ飛んでいたんですね。しかも片道だけ。
福井を10:05に出る362便が1日1本だけ飛んでいました。
でも、その362便は同じ便が小松から名古屋に向かっています。
小松9:20発で名古屋10:50着。
そう、同じ便なんですね。
これはどういうことかというと、よく見ると「福井経由」と書かれているのに気が付きます。
そこで、今度は福井空港の欄を見てみることにしましょう。

この欄をご覧いただければお分かりになるように362便は小松から福井を経由して名古屋へ行く便なんですね。
9:20に小松を出て9:40に福井空港に到着。25分の待ち時間で10:05に福井を出て名古屋に10:50に到着するんです。
当時はこのような経由便というのが結構残っていましたが、福井に空港があって、小松から福井へ飛ぶ便が出ていたなんて、今ではとても信じられません。
時刻表上の飛行時間が20分というとこは、実際に飛んでいるのは10分足らずで運賃も片道1400円です。
当時、空席があれば乗れるスカイメイトという学割制度が割引率50%でしたから、学生なら700円で飛行機に乗れるわけです。
当時高嶺の花だった飛行機に700円あれば乗れる。それも帰りは何の苦もなく電車で帰ってくれば良いわけですから、中学生の私は小松に住んでいる人がとてもうらやましく思えました。
今ならマイル修行僧と呼ばれる人たち御用達フライトになりそうな、そんな便ですが、この年限りで福井空港の定期便就航はなくなってしまい現在に至りますので、今では遠い思い出ですね。
福井空港は北陸本線とえちぜん鉄道に挟まれた田園地帯にあり、私は今でもここを通る度に「あそこが福井空港だ」と見ることにしていますが、滑走路を延長してジェット化しようとした際に住民の猛反対に合い延長を断念し、定期便が飛ばなくなった経緯があります。
反対運動の経緯は良く知りませんが、地域住民の意見を最優先した結果。福井県は空港のない県になり、来春の北陸新幹線の開業からも取り残された感があるのは、なんだか皮肉なような気もします。
小松空港を利用すればそれでよいのかもしれませんし、新幹線が来なくても福井の文化圏は大阪、名古屋方面ですから、それで事足りるのかもしれませんが、福井の人たちはどう思っているのでしょう。
成田空港の反対運動もそうですが、一部の地域の人たちの意見が、県全体の利益や国益を損なうことになるのですから、考えてみれば恐ろしいことだと思います。
もっとも、当時としては飛行機は非日常の贅沢な乗り物でしたから、空港がその地域に利益をもたらすなどという発想は、少なくとも田舎の人たちにはありませんでしたし、日本全国、公共の利益よりも地域の騒音の方が大きな問題だったわけで、よほど強いリーダーシップを発揮できる指導者でもいない限りは、仕方なかったのかもしれません。でも、そういう考え方の延長線の上でやってきた結果が、今の日本の閉塞感の基になっていることは確かだと思います。
いずれにしても、中学生の時に航空時刻表に取りつかれて、このような発見の楽しみの遊びにふけっていた私は、勉強する時間を惜しんで鉄道や飛行機の時刻表の魔の手にはまっていったのでありました。
(つづく)