C6215の動輪

今日は都内に出かけました。
丸の内での打ち合わせだったんですが、地下道を歩いていると、C62の動輪に出会いました。
「おお、そういえばここだったか。」
昔は丸の内の地下の一番奥のひっそりとした場所だったはずなのに、その奥に通路ができて、人通りが激しいところになっていましたが、間違いなくC62の15号機の動輪です。

この機関車は、昭和20年代から30年代にかけて東海道、山陽本線の特急列車に活躍し、電化とともに西へ追いやられて、最後は呉線で昭和45年まで活躍しました。
その後、小樽築港機関区へ転属となり、今、梅小路に保存されているC62-2号機とともに、函館本線の急行「ニセコ」などに活躍して、昭和46年に廃車になったものです。
私は当時小学生でしたので、呉線も函館本線も行きたくても行かれない遠いところ。だから現役時代のC62は知りませんし、それほど親しみがあるカマでもないんですが、この動輪がここに置かれた時のことははっきり覚えています。
それは、昭和47年7月15日。
鉄道百年の年でもあり、世の中は、SLブームで浮かれていた時代です。
外房線の電化と総武快速線の線路を増設した複々線化が完成し、183系特急電車が走りだしたときで、それまでの両国駅に代わって、東京地下駅が房総方面への発着駅として華々しく開業した時です。
当時の国鉄としては東京駅の地下駅は巨大プロジェクトで、15両編成が発着できるこれだけ大きなターミナルを、地下深くに建設するということは、小学生だった私にとっては大変興味深いことでした。
そして東京地下駅開業の時に、この動輪が置かれたわけです。
当時は横須賀線はまだ地表ホームからの発着でしたので、東京地下駅は千葉方面へ行く列車しか発着してませんでしたが、それゆえ、千葉の鉄道が急に輝きだしたように見えて、私はとてもうれしかったんです。
その2~3年前までは、モクモクと煙を吐いた蒸気機関車が走っていたのに、わずかの期間で電化され、地下駅から新型特急ですから、「やったー!」と思ったのです。
そして、その東京駅の巨大プロジェクト完成記念に、わざわざ北海道からこのC62の動輪を持ってきたのですから、当時の国鉄マンの心意気というか、こだわりを感じませんか?
だって、当時はまだ本州各地でSLが走っていたし、ちょうど電化されて廃車となる羽越線のC57だって動輪直径は同じですから、近場からいくらでも動輪を運んでこられたというのに、わざわざC62の若番のものを設置しているわけで、これこそ、かつての東海道本線の特急機の動輪ですから、そこに国鉄のすごさが感じられるわけであります。
今日は、久しぶりにこの動輪を見つけて、40数年前の鉄道百年当時のことを思い出した1日でした。
それにしてもなんで西日本にC62が2両あって、東日本にはないんだ。
常磐線で走らせて復興のお手伝いをさせたいと思うのは私だけじゃないはずですよね。
「ゆうづる」とか「はくつる」のヘッドマーク付けて、余剰になったブルートレインを6両も引かせれば絵になるし、福島の人も喜んでくれると思うんですが、いかがでしょうか。