思い出の房総夏ダイヤ

この季節になると、房総の夏ダイヤを思い出します。
7月20日前後からの約1か月間は、内房線、外房線共にダイヤが大きく変わって、断然にぎやかになったんです。
当時の国鉄は、東京地区は3つの鉄道管理局に分かれていました。
東京駅を発着する東海道線方面は東京南鉄道管理局(新幹線は新幹線総局)。
新宿駅から出る中央線方面は東京西鉄道管理局。
上野駅を発着する東北方面は東京北鉄道管理局。
その他に、水戸鉄道管理局、高崎鉄道管理局、千葉鉄道管理局がありました。
各管理局の境目は面白いことに秋葉原を中心にした一駅間に集中していて、例えば秋葉原―神田間では北と南が、御茶ノ水―神田間では南と西が、そして秋葉原―浅草橋間では北と千葉との境界線が敷かれていました。
水戸鉄道管理局は常磐線の取手から先、高崎鉄道管理局は大宮以北でしたから、千葉の鉄道は浅草橋以東の都内を路線に含んでいるのもかかわらず、東京東鉄道管理局ではなくて、千葉鉄道管理局でありましたから、私は子供ながらに千葉は差別されているように感じていました。
実際、千葉の鉄道の起点は両国駅で、走っている列車も東京乗り入れ列車で最後まで蒸気機関車が走っていたのは千葉でしたし、蒸気機関車亡き後もディーゼルカーが煙をモクモクはいていましたから、どう贔屓目に見ても、千葉の鉄道はうらぶれていて、虐げられているように見えたんです。
(今はどうか知りませんよ。)
そんな子供の目から見て、一年に一度だけ誇らしく見えたのが房総夏ダイヤ。
房総東線(外房線)、房総西線(内房線)を中心に海水浴臨時列車が多数設定され、夏季輸送のために毎年実施されていた夏休みの特別ダイヤです。
蒸気機関車が活躍していた時代は、C57やC58の引く海水浴臨時快速が房総西線の館山方面を中心に多く設定されていたことは有名な話ですが、キハ28・58を使用した臨時列車も多く設定され、中には中央本線の甲府方面から直通する館山行なんてのもあって、それがどれも満員で乗り切れないぐらいでしたから、昭和40年代中ごろまでの房総半島の海水浴需要というのがどれだけすごかったのかご理解いただけると思います。
電化そのものは房総西線の方が早く、私の記憶では昭和44年には房総西線は館山、千倉を通って安房鴨川まで電化され、それと同時に蒸気機関車が全廃しましたが、それから3年遅れて昭和47年7月に東京地下駅が開業すると同時に房総東線も安房鴨川まで電化され、房総半島一周の電化が完成しました。(その時に線名も改名されて内房線、外房線になりました。)
先日、いすみ鉄道を退職された照岡運転士さんは、昭和43年に国鉄に入社されたとおっしゃっていましたが、その当時は房総半島は非電化で蒸気機関車やディーゼルカーが走り回っていた時代。私は小学校2年生で、亀戸や錦糸町で走り去るD51に手を振っていたころですから、そういう時代から鉄道一筋で活躍されてこられた方と一緒に仕事ができて本当に幸せだと思いますし、いすみ鉄道は素晴らしい職場だと改めて感じます。
その頃、私が小学生のころですが、千葉の鉄道は大きな変革期を迎えていて、電化は木更津、成田に延伸し、その後内房線全線電化、蒸気機関車廃止、東京地下駅開業、総武線複々線化、外房線電化と、今思えば、わずか数年で動力近代化の波が通り過ぎて行ったことになるのです。


外房電化後の昭和49年夏の外房線の夏ダイヤです。
時代背景はというと、千葉県知事の森田健作さんの青春ドラマが大ヒットしていたころと言えば、その時代を生きてこられた皆様は「ああ、あのころか。」と実感していただけるのではないでしょうか。
東京を起点にわずか130kmほどの区間に、特急、急行、快速と3種類の優等列車が設定されています。
特急「わかしお」は東京地下駅を発着する183系電車。急行「みさき」は153系または165系電車で、両国、新宿を発着していました。
そして、その間を縫うように113系電車の快速「白い砂」が走る大変興味深いダイヤです。
ご覧いただければお分かりになると思いますが、新宿を7:15に出る「わかしお1号」の約10分後に「白い砂2号」が、両国8:04発の「みさき2号」の約20分後に「白い砂3号」が、東京9:00発の「わかしお3号」の6分後に「白い砂4号」が走っているということは、定期列車で運びきれないお客さんを補完するために、臨時の快速電車が続行運転されていたことがよくわかるダイヤなんですね。
この快速「白い砂」が当時の夏ダイヤの特徴で、外房線は「白い砂」、内房線は「青い海」という名前でヘッドマークをつけて走っていましたが、これは夏だけの話で、夏季ダイヤ以外では、需要がなくなるため、ほぼ特急と急行だけになりました。
また、急行列車は循環急行と呼ばれていて、新宿・両国を出て外房線→内房線と房総半島を一周回って新宿・両国へ戻る列車を「みさき」。逆に内房線→外房線と回る列車を「なぎさ」と呼んで、それぞれヘッドマークを付けて走っていました。
この列車は勝浦―館山間の房総半島の一番先端部分は普通列車として走っていて、当時73系旧型国電だった普通列車から比べると、冷房付の急行形車両は、何ともお得感のある乗り得列車でした。

[:up:] 特急「わかしお」と急行「みさき」。1973年8月 上総興津

現在のいすみ鉄道の前身である国鉄木原線の当時の時刻はこちらです。
大原発午前4時台の始発列車や、上総中野から早朝に大原へ向かう列車が3本も設定されているなど、当時の旺盛な輸送需要がわかります。
この時刻を見てお気づきになる方はいらっしゃいますでしょうか。
早朝、3本の上り列車を出すために上総中野に3組の乗務員が宿泊していたんです。
そのための送り込み列車は前夜の2本で、それを3列車に分割して翌朝出てくるわけです。
いすみ鉄道で今でも活躍している運転士さんの中には上総中野での泊まりを経験された方もいらっしゃいますが、当時はそれなりに大変だったらしいですよ。(笑)
土曜日運転の9766Dという列車も面白いですね。
当時は週休二日制が始まる前ですが、半ドンの土曜日、町役場と高校生のための帰宅用の通勤通学列車だということがわかります。
ところが、今と違って木原線当時の大多喜に車両基地はありませんから、この9766Dの車両はどうしたのでしょうか。
その答えは下りの761Dにあります。
上総中川から大多喜までこの列車は11分ありますが、2つまえの757D(大多喜止まり)は上総中川から大多喜まで6分で走っていますから、761Dは大多喜で5分停車していたことがわかります。
そうですね。大原方面からやってきた761Dは、たぶん土曜日は増結編成で来たんでしょう。大多喜で5分停車中に切り離し作業を行って、761Dはそのまま上総中野方面へ発車していきます。その後、切り離された列車が9766Dとなって1番ホームから大原へ向かって戻っていったということですね。
当時から細かな運用を行っていたことがわかります。
時刻表を「読みこなす」ということがご理解いただけますでしょうか。
さて、キミマロさんではないですが、「あれから40年」の歳月が経過し、今の房総半島の鉄道は如何でしょうか?
鉄道だけでなく房総半島全体がすっかりさびれて、房総夏ダイヤ当時の面影はありません。
この原因は何かというと、「モータリゼーション」なわけですが、そんな簡単に一言で片づけてしまっては、今後も同じ轍を踏むことになります。
私が小学生だった頃には乗せきれない、運びきれないほどだった夏の房総半島の鉄道が、中学生のころになると少しずつ蔭りが出始めて、昭和50年代になると「海への足」として利用されなくなってきました。
その原因は何かといえば、当時のことを思い出すと、サザンオールスターズの衝撃的なデビューで、サーフィンが大ブームになりました。
そのころ海水浴場の需要が、それまでの単なる海水浴から、サーフィン需要に変化していったんです。
ところが、当時の国鉄は「サーフボード持ち込み禁止」として、サーファーが列車に乗るのを拒絶したんですね。
国鉄というのは商売を知らない人たちの集まりで、「乗せてやってるんだ」という人間の集団でしたから、ただでさえ混んでいる列車にサーフボードのような大きなものを持ち込むのはまかりならんと宣言したわけです。
私の記憶からすると、これで一気に流れが変わりました。
どうしてもサーフィンに行きたい人たちは、なけなしのお金をはたいて中古の自動車を買って、友達とシェアしながら夜通し走って房総半島に向かうようになったんです。
それがちょうどモータリゼーションと重なって、鉄道離れに拍車をかけてしまったんですが、サーファー以外の単なる海水浴のお客さんは、飛行機の大衆化で沖縄や与論島など、もっと遠くへ、もっときれいな海へ行くようになったのです。
飛行機はもちろんですが、一度、車の味を覚えてしまったら、鉄道に戻るわけないですよね。
鉄道は混んでいて座れるかどうかわからないし、座りたければ何日も何週間も前から駅に並んで座席を確保しなければなりません。
車に比べたら時間に制約があるし、大きな荷物は持ち込めないし、職員の態度は悪い。
自分たち若者は鉄道会社から歓迎されていないわけですから、そんな列車に高いお金を払って乗るぐらいなら、多少渋滞にあっても、時間の制約がなく、数人で利用すれば割安な車の方がはるかに良いわけです。
これが房総半島の鉄道の衰退の始まりで、でも、これは何も房総半島に限ったことではなくて、日本全国で鉄道離れが進んだ原因になったということです。
そして一気に房総半島も千葉の鉄道も衰退していったのです。
それをしっかり把握していないと、房総半島の今後をどうしていいのかわからなくなります。
今、鉄道会社はお客さんに「夢」を売ることを辞めてしまう傾向にあります。
2泊3日で何十万円もする豪華列車は「夢」ではありません。
これは「欲」なんです。
何十万円の列車が予約が取れないということは、物質に対する欲望を追求してきた人たちが殺到しているだけなんです。
どういう人たちかといえば、この国にバブルを引き起こした団塊の世代以上の人たち。
その団塊の世代以上の人たちが旅行需要を支えている時代はいつまでも続きません。
欲を煽る、欲望を追求するような商品を企画し提供していることは、私はあまり自慢できることではないと思いますが、いかがでしょうか。
それとも、お金がない会社の社長の負け惜しみと言われるでしょうか。
私は、自分がそうだったように、鉄道の対する夢は小さいころから育てていかなければならないと思います。
鉄道会社はマニアを嫌って、マニアに来てほしくないような態度をあからさまにすることがありますが、自分たちの会社のファンの方々を、お財布の中身を狙うことばかりじゃなくて、もう少し大事にして育てていく努力をするべきなんじゃないかなあと思うのです。
鉄道会社は国鉄時代はもっとも商売に向いていない人種の集まりでしたが、その血が受け継がれていないことを願うばかりです。
さあ、いよいよ夏休み。
各社のお客様サービスを比較できる良いチャンスです。
お財布の中身狙いの会社なのか、それとも楽しい思い出を作ってもらって、夢を育てる会社なのかは、皆様方が見て判断することです。
いすみ鉄道も「夏季ダイヤ」で、房総半島に少しでもお客様をお迎えしようと考えています。
いすみ鉄道では、ふだんから人気で予約が取れない状況にある「レストラン」をこの期間は止めて、夏休み期間中は、割安なコースを設定しています。
お客様がいっぱい来る夏休みの期間、普通に商売をすることを考えれば、大人気のレストラン列車に割増料金を設定してさらに売り上げを上げるのが当たり前かもしれません。
でも、いすみ鉄道は、わざわざ儲かる時期に伊勢海老特急やイタリアンランチクルーズなどの高級商品を減らして、その分カレー列車のような割安の商品を出すんです。
それはなぜか。
小さなお子さんを連れたご家族や、若い人たちに、予算がなくても楽しい思い出を作ってもらいたいからなんです。
「お金がなくても、楽しみ方はあるんだ。それがローカル線だ」ということを知ってもらいたいんです。
小さなお子様連れでも、ご家族でも、おひとり様でも気軽にお楽しみいただけるのがいすみ鉄道の「夏季ダイヤ」なんですね。
そして、いすみ鉄道と房総半島を思い出にしてもらいたい。
そうすれば、この地域を故郷のように思ってくれる日本人がどんどん増えていきますから、房総半島の将来は明るくなるんです。
これが、子供のころ夏休みを房総半島で過ごし、その頃の時刻表を今でも大切に保存している社長の考え方なんです。
皆様、いすみ鉄道で楽しい夏休みの思い出を作ってくださいね。
(こんな考え方では、たぶん、来年の決算もいい数字が出ないだろうなあ。でも、笑顔は増えるはずだから、1年単位じゃなくて10年単位で考えたら、必ずプラスになるんです。私はそう信じています。房総半島と鉄道の未来のために・・・ね。)