千葉の鉄道 その3 新小岩

両国、錦糸町は下町の盛り場で、当時もずいぶん賑わっていましたが、総武線という電車は、私が育った池袋や板橋付近の電車に比べると、なんだかうらぶれた感じがして、そういう目で見ていたからでしょうか、秋葉原で山手線を降りて総武線のホームに上がった途端、ちょっと異質の空気を感じたものです。
そんな中で、総武線の各駅停車の主流は茶色い73系チョコレート電車でしたが、黄色い101系電車がひときわ輝いて見えて、茶色い電車を何本か見送って、黄色い101系を待って乗ったりしていました。
(101系は当初山手線に配属されていましたが、緑の103系に置き換えられて総武線に入りました。その点では101系は山手のお古なんですが、総武線では輝いて見えたものです。当時は山手線を「うぐいす」、総武線の101系を「カナリア」と呼んでいました。)
錦糸町から亀戸、平井と進むにつれて、下町から工場が立ち並ぶエリアに入ると、なんとなくさみしい気がしましたが、山手線から放射状に分かれる東京の電車の中で、距離の割には早く田舎っぽくなるのが総武線と常磐線でした。
平井を出て大きな川を渡ると新小岩に到着しますが、ここ新小岩は大きな鉄道の町で、機関区や工場、そして貨物の広いヤードがある敷地が、新小岩から小岩の間に広がっていました。
今でいうと、新小岩を出て環七の陸橋を過ぎるあたりまで、ちょうど高層住宅が立ち並ぶエリアになりますが、ここはいつも列車がたくさんいて、蒸気機関車の煙があちらこちらから上がっていたのを覚えています。
ということで、本日も鉄道写真家、結解学(けっけまなぶ)先生の作品集です。
結解先生は私より2つお兄さんですが、ということは当時小学校5~6年生でしょうか。
その年の割には当時貴重品だったカメラを使いこなされていて、アングルもばっちり決まっていますから、さすがというしかありません。
フィルムと現像代のお小遣いはどうされていたのか、気になるところです。

[:up:] 新小岩の構内で入換をするC58‐85。この写真は千葉方面へ向かう総武緩行線の101系電車の一番前から撮影したもの。C58の向こうには広い構内が広がっています。
新小岩の機関区、ターミナルは複々線化が完了し、快速電車が走り始めた後もずっと存続していましたが、ここは越中島からくる貨物列車が常磐線方面へ行く分岐点でもあったことから、広いヤードが設けられていました。

[:up:] 当時、新小岩駅の北口があったかどうか記憶にありませんが、南口を出て本屋さんの角を左に曲がって平和橋通りのガードをくぐると、ちょうど今、線路の北側にある自転車置き場の付近から機関区が良く見えました。
この写真はC58ですが、はっきりと記憶していないのが残念ですが、D51を始め、いろいろな機関車がゴロゴロしていたような気がします。

[:up:] キハ28の急行「うち房」。昭和44年7月初旬のダイヤ改正で房総西線は千倉まで電化されましたので、昭和43年が気動車急行「うち房」の最後の夏だったということになります。

[:up:] 江戸川鉄橋を渡った総武線の電車が市川に到着するところ。向こうからは165系電車がやってきます。ヘッドマークがついていないところを見ると急行ではなさそうですね。当時の総武線の線路は小岩から市川、そして船橋までずっと地表を走っていましたが、そろそろ複々線化、高架化のための工事が開始されています。この後数年間は線路が右へ行ったり左へ行ったりしていました。
小岩も市川も下総中山も貨物駅だったんですから、今思えば信じられませんね。
中央線も小田急線も長い年月をかけて複々線化や高架化工事が行われましたが、総武線の高架化、そして複々線化はわずか3年ほどで完成し、快速電車が走り始めたことを考えると、実に急ピッチで進められたかがわかります。
まだまだ沿線に敷地が残されていたんですね。
今、快速電車が無かったら、千葉の交通はどうなっていたのでしょうか。
50を過ぎて、はるか遠い記憶の彼方に行ってしまった地平を走る総武線。
結解先生のおかげでこうして写真を見ることができると、そのはるか遠い記憶がまるで昨日のことのようによみがえるから不思議ですね。
懐かしく思い出します。
それだけ年を取ったということなのですね。
でも、こういう思い出があることは実に幸せなことなんです。