昨日は会議のため都内へ出張しました。
せっかく都内へ行くのだからと、小学生の時に最後の都電を追って歩いたところを40数年ぶりに歩いてみました。
アサヒビールの脇を走る都電です。
昭和47年の春、まだ寒いころだったと記憶しています。
下は同じ場所で、こちらは昨日です。
こちらは雷門。
最近では、人力車の車夫が客引きをするようになって、通行人に声をかけ続けています。
昔の池袋西口の歓楽街を思い出させます。
どういう契約形態かは知りませんが、彼らも必死なのでしょうね。
記憶が定かではないのですが、都電の車庫は城東地区にいくつかありました。
一つは錦糸町駅前。
ちょうど今、丸井が建っているところで、錦糸堀と言っていました。
あと、柳島の川の横にも車庫がありましたし、砂町の方にもあった気がします。
日本橋から東陽町の方をまわって錦糸町へ行く路線や、押上から浅草を通り上野をまわって神田須田町までの路線(写真の系統)、森下から架け替え前の肌色のトラスだった新大橋を渡る路線もありました。
それぞれがいつ廃止されたのか記憶が確かではありませんでしたが、徐々に廃止されていく都電を、塾帰りの小学生が寄り道をして写真に収めていたのですね。
錦糸町で都電の撮影を終えて総武線のホームへ上がると、ちょうど試運転中の快速電車に出会いました。
東京地下駅用に増備されたシールドビームの113系がピカピカです。
この時はまだ東京地下駅開業前で、列車は試運転でしたので窓にはブラインドがかかっています。
ホームのこの場所は道路をまたぐ部分で、数年前まではここに踏切があって、C57やハチロクが入換をしていた場所です。
それが、複々線化が完成し、もう間もなく快速電車が走り始めるということで、その踏切があった場所でシャッターを押したものと思われます。
開業前なのでホームにも人影がありませんでした。
当時、東海道線も横須賀線も113系でしたが、デカ目で非冷房でしたので、総武快速線用に新製投入されたシールドビームの顔が何ともカッコよく見えました。(もっとも、この写真は冷房準備車ですが。)
千葉鉄道管理局に新車が入るなんて前代未聞のことでしたので、みんなとても喜んでいたことを思いだします。
今思えば、房総の夏季輸送もこの頃がピークで、蒸機無煙化⇒電化⇒特急運転開始と近代化が進むたびにお客さんが減っていくことに、当時はまだ誰も気づいていなかったのです。
今の房総特急の惨憺たる状況を見るにつけ、かつての夏季輸送を知る私としては胸が痛む思いです。
こうしてみると、東京も大きく変貌を遂げていることがわかりますね。
東京少年としては隔世の感があるということなのです。
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