よそ者の仁義

田舎を活性化するときに必要なのは「よそ者」の力である。
これはすでに言われて久しいことで、このことを否定する人はいないと思います。
ところが、田舎の人は、「よそ者の力」は必要だとわかっていても、実際に目の前によそ者が現れると、そのよそ者を否定する行動に出るものです。
「いったいお前さんは何者だ。」
と、こういった具合です。
田舎の町が、なぜこんなにも廃れてしまったのかという現状を考えた場合、そこの町にずっと住んできた人たちが、結果としてそうしてしまったわけですから、いまさらその人たちにはどうすることもできないというのが現実です。
だからよそ者の力を借りなければならないのですが、そんなに簡単によそ者の力を借りることができるような人たちならば、こんなになる前にすでに借りているわけで、それまでにもいろいろな話があったのでしょうけど、一つも実を結ぶことなく今があるということが紛れもない事実なのです。
さて、ではよそ者とはいったいどんな人間で何者なのでしょうか。
結論から言えば、都会から田舎の町にやってくる人間というのは「好奇心旺盛な変わり者」です。
私のように50を前にそれまで勤めてきた航空会社を突然辞めて、条件など一切気にせずに田舎にやってくるような人間ですから「変わり者」という日本語が正しいでしょう。
アメリカの宇宙船が火星に到着したそうですが、その名前が「キュリオシティ」。(※)
地球から火星に行くほどは遠くはありませんが、都会から田舎に来るのですから、よそ者も火星探査機と同じように、まさしく「変わり者」。「好奇心のかたまり」であり、「野次馬」です。
さてさて、その好奇心旺盛な変わり者であるよそ者を田舎の人が受け入れることができない、というのが日本全国の町おこしの一つのネックになっているようですが、本当にそうでしょうか。
よく考えて見ると、そう言っているのは町おこしを仕掛けるよそ者側の立場の人たちです。
自分たちが仕掛けた町おこしのプランが実行に移されないことによる感情的な面もあるかもしれません。
私はフェアな物の見方をするべきだと思っていますから、「では、田舎の人の立場に立って物事を考えてみたらどうなるでしょうか。」ということも必要だと思います。
つまり、私が言いたいのは、よそ者が受け入れてもらえない理由は、もしかしたらよそ者の側にもあるのではなかろうか、ということです。
もともと田舎にやってくる物好きな変わり者たちは、私の経験からすると、社会的経験が浅い人や会社組織などに適応しない人たちが多い傾向にあります。
そういう人は、相手の場所にお邪魔するときに、きちんと「こんにちは。」とあいさつをして、自分の名を名乗り、「お邪魔します。」「よろしくお願いします。」と言って入ってきているのだろうか。
「あいつ見かけない奴だな。」と地元の人が言うのも問題ではありますが、よそから来たらまず挨拶をして、自分の素性を明かして、仲間に入れてもらう努力をしなければならないのは、田舎じゃなくても、どこへ行っても常識だと思いますが、果たして好奇心旺盛な変わり者たちが、こういう社会的な常識を備えているかどうかというと、はなはだ疑問になります。
東京や世界の広いところでいろいろな経験を積んで田舎にやってきた変わり者の目には、田舎の光景がどう映るのでしょうか。
まずは「良いところだなあ、すばらしいところだなあ。」と思うはずです。
その地域をそう思って、気に入って好きになる。だからやってくるのですが、ではそこに住んでいる人たちのことはどう見るかというと、案外自分より下に見ていたりするかもしれない。
過去40年間の日本の状況を見ると、「田舎はダメで、都会は素晴らしい。」というのが根拠のない常識になっていますから、都会から来た人たちは、田舎の人のことを、
「そんなことをやってるからダメなんだよ。」的な上から目線で物を見てしまう傾向があるのではないでしょうか。
確かにその人は素晴らしい経験を持っていて、その経験を田舎で活かそうと思って来てくれたのでしょうが、そんなことは田舎の人にはわかりませんから、いきなり上から目線で物を言ってくるよそ者に対して「何だあいつは!」となってしまうのも無理ありません。
でも、よそ者としては「どうして俺のことを受け入れようとしないのか。俺の経験を活かせばこの町ごときを再生させるのは容易なことなのに。」ぐらいに考えてしまいます。
特に社会的経験が浅かったり、会社組織に適応しないようなキュリオシティたちには顕著なことで、だから、ボタンのかけ違いで、お互いの感情が昂ぶっていくことになるのです。
これが私の分析です。
よそ者として、いろいろな人にいらしていただけるのはありがたいことですが、田舎の人に「東京から来た流れ者。」と思われないようにしなければならないのです。
「あなたはいつまでここにいるの?」
苅谷の商工会婦人部の人が初対面の私に言った言葉です。
「ああ、この町の人たちは、今まで、いろいろなよそ者、流れ者に振り回されてきたんだなあ。」と、その時私は思いました。
だから、そう言われた私がやってきたことは、自分をさらけ出して仲間に入れてもらうこと。
3セクの社長なんて雇われサラリーマン社長ですから、別に地元とそこまで深く付き合う必要はないと言われるかもしれませんが、私は、よそ者の仁義として、こちらから仲間に入れてもらう努力をしてきました。
実際に沿線にアパートを借りて、地元の人たちと食事をしたりお酒を飲んだりして、自分という人間を理解してもらう努力です。
田舎の町で床に就き、田舎の町で目が覚める。
頭では理解していても、実際にやってみることとは違います。
よそ者として、町に溶け込む努力をするわけです。
そうしているうちに、徐々に打ち解けてきて、野菜やお米をもらったり、人生相談を受けたり、娘さんの結婚式に招待されたりと、どんどん付き合いが深くなっていく。
その結果として、地域の人たちが私のアドバイスを聞いてくれたり、一緒に活動していただけるようなったのです。
私は就任してからわずか3年です。
でも、このわずか3年の間にも、たくさんのよそ者や知らない人がやってきました。
みんな「いすみ鉄道のために何かしたい」、という意思表示をして、何やら始めるのですが、いつの間にか消えていってしまいます。
さんざん大きな話をしておいて、気が付いたら消えてしまっている。
ロクな挨拶もなしに。
後で聞いてみると、詐欺師だったり、事業で失敗して借金取りから逃げてきていたり、偽うつ病患者で何度も会社を変えて休業補償をせしめる常習犯だったり、ほとんど社会人としての常識を持ち合わせていない人たちばかりなのです。
そしてそういう人間に限って、自分を大きく見せたり、実績を強調したりするわけです。
よく考えれば、そんなに凄い実績があるんだったら、会社辞めてわざわざ田舎に来る必要もないことぐらいすぐわかるのに、そういう人たちは皆そういう態度でやってきます。
だから、私もそうですが、田舎の人は、よそ者として田舎にやってくる人間を、「はたしてこいつは信用できるのだろうか。」という目で見てしまいます。
自分たちの町に町おこしを仕掛けてくれるのはありがたいけれど、その人がどういう人で、どういう目的で自分たちに近づいてきているのかがわからないから、疑ってしまうのは、田舎も都会もなく、人間だったらどこでも同じこと。
田舎の人がよそ者を受け入れないというのは、何も、変化を嫌うとか、新しいことをやりたがらないということではなく、それ以前の問題として、そいつが信用できるかどうかを確かめなければならないからなのです。
どうです、よそ者の皆さん。
受け入れてもらうためには、よそ者としての仁義があるのですよ。
「俺はこんなにすごいのに、どうして俺の言っていることがわからないんだ。」という態度のよそ者は、いすみ鉄道沿線に去年もおととしもいたでしょう。
そして、いつの間にか消えて行ってしまったじゃないですか。
だから、本当に才能があるよそ者は、そうなってはいけないのです。
よそ者の力が発揮できるかどうかの第一関門は、よそ者本人にかかっているのですよ。
よそ者の私が、最近ではどちらかというと地元の人の目線で物を考えていることがよくあります。
だんだん地域に染まってきているといううれしい実感です。
よそ者の皆さん、持てる才能を惜しみなく発揮するためには第一関門の突破が必要です。
いっしょに頑張りましょう。
※ Curiosity
火星探査機のこと。知らないところに興味を持つ好奇心旺盛な人間、物好きという意味の英語ですが、私は「よそからやってきた変わり者」(Stranger)という意味で使ってみました。