被災地支援に行ってきました。

私が住んでいるのは佐倉市のユーカリが丘という地域ですが、その地域で自治会や市議会など各方面でリーダーシップを発揮している地域の先輩方に誘われて「被災地支援」に行ってきました。
私は昨年の震災直後から三陸鉄道さんを始め、何度も被災地に足を運んでいますが、それは鉄道会社の社長として行っているのであって、一般市民として何ができるかを考えると、なかなか思い浮かぶことがなかったのですが、ユーカリが丘のリーダーの皆様方は、「難しく考えるのではなく、行って、自分の目で見て、現地でお金を使って、そして見てきたものを1人でも多くの人たちに伝えよう。」と、実に明快で解りやすい言葉で私に声をかけていただきました。
まるで、私が難しいことを考えるのが苦手であることを知っていらっしゃるようなお誘いの言葉に、「よし、行くぞ!」となったのです。
そして今回向かったのが宮城県の南三陸町の志津川という町。
瓦礫の山を見て、地元の人のお話を聞いて、やっぱり何とかしないといけないと考えたのです。

[:up:] 南三陸町。津波被害を受けた地域にはまだ復興建設が始まる以前の状況。

[:up:] 女川町の瓦礫の山。町の人のお話ではチリ地震の際の津波で被害を受けず安全と思われていた集落に最大の被害が出たとのこと。瓦礫の山から大量のハエや蚊、臭気が発生する季節が間もなくやってくるのです。
日本では原発の話はエネルギー問題というよりも、どちらかというと個人の思想信条にかかわる議論のようにみられていますから、皆さん、あまり口にしたがらない傾向があるようですが、例えば女川町で見せられた瓦礫の量は、人口1万人の女川町の130年分のゴミの量になるわけで、こういう瓦礫の処理をどこかでお手伝いしないということは、この量を女川だけで130年かかって自分で処理しろと言っていることになると思うのは私だけではないと思います。
処理に100年以上かかるのですから、その瓦礫の処理の分担をイヤだと言っている自治体には、今の予測で行けば、その100年の間に、必ず災害が来るわけで、そういう時に、他の誰もが助けてくれないよ、ということは、昔話に出てくるストーリーと同じだと思いませんか?
町や市、県という境界線があるのはわかりますが、こういう瓦礫の処理などは、県や市といった人間が後から作った境界線ではなく、日本人が日本全体で受け入れなければならないと感じました。
これは自分の目で見た実感ですから、やっぱり偉そうなことを言う前にまずご自身で行かれて、自分の目で見ることが大切だと思います。
そんな視察旅行ですが、夜は南三陸町の高台に残った温泉ホテルに泊まり、地元のおいしい食材とお酒をたっぷりといただき、地元の人たちから逆に元気をもらって、その代りと言っては何ですが、漁協の市場やかまぼこ工場、お土産物屋さんなどでたくさんお土産を買って帰ってきたのであります。
南三陸町、女川町の皆様方、ありがとうございました。


[:up:] 宴会の乾杯の音頭は高木邦夫さん。皆様ご存じの元ダイエー社長さんです。同じ町内会の先輩です。

[:up:] 今回の旅行の指揮を取っていただいたリーダー橋岡久太郎さんと女川の蒲鉾屋さんの前で記念撮影。
橋岡さんは能楽師、シテ方観世流 九世 という世界的に有名な方。
誰です、「仲良し兄弟みたい」と言うのは・・・
ユーカリが丘の町内会には面白い方がたくさん住んでいらっしゃるのです。
さて、今回の視察旅行を終えて、私は日本人の考え方が以前に比べて進歩したと思いました。
たくさんの方が犠牲になられた地域を訪問するのですから、もう少し厳粛な気持ちで行かなければならない、というのは以前の日本でしたら当たり前だったと思います。
でも今は、誰ともなく言いだした「被災地に行って食べて飲んでお金を使うことが一番の支援だ。」というこの考えが、支援の基本であり、経済活動と言う基本的なところをしっかりと確立させることが、復興の礎になるということなのです。
かつての日本人だったら「不謹慎だ!」と言われたことが、実は人間が生きていくために必要な基本事項だということ、そしてそれが極めて自然な形で、「行くぜ!東北!」という形になるということは、イデオロギーや机上の空論ではなくて、残された人間がどうやって生きていき、元の生活に一日も早く戻ることができるかにつながることだと思うのです。
反論もおありかと思いますが、どうのこうの言う前に、まず行ってみることです。
ホテルにも漁協の市場にもお土産物屋さんにもかまぼこ工場にも被災したたくさんの人たちが働いていて、私たちが彼らの商品を買って食べるということがどういうことか、よくわかると思います。