高2の夏 北海道旅行 その3

夜汽車の中でほとんど眠れぬまま函館についた木村君と私は、もっと眠りたい、と2人の意見が一致し、とりあえず、また列車に乗ることにした。
乗車したのは松前行の急行「松前」。江差へ行く急行「えさし」と併結されていて、途中の木古内で松前線と江差線のふた手にわかれる列車だった。
「松前」は1両、「えさし」は2両の3両編成で函館を発車した。
なぜ松前に行くことになったのかは全く記憶にないが、とりあえず列車に乗って座れば、寝る場所が確保できたから、松前でも江差でもどちらでもよかったのである。
ただし、松前線はその後廃止されてしまい、今では乗ろうと思っても乗ることができない路線になってしまったので、この時乗ったのが最初で最後の松前線になった。
あとになって松前線の廃止の報を聞いた時には、1両の「松前」と2両の「えさし」の乗客の差が路線の存廃を決めたように思えた。
この急行「松前」は、終点の松前でしばらく停車したのち、また折り返し函館行の急行「松前」となって、途中の木古内で、さっき別れた急行「えさし」とまたくっついて函館へ向かった。
青函トンネルができるはるか以前の松前線、江差線は、もちろん非電化で、ローカル色が濃い路線だった。
松前駅ではホームに「急行列車は1両です」という表示が出されているのが珍しくてシャッターを切った。1両とか2両で急行になるというのが、長編成が当たり前だった当時は珍しかったし、急行形車両でない各駅停車の車両を使って「急行」にしているのも面白いと思った。

[:up:] 1両の急行「松前」。この車両はバス窓のキハ21。
20系気動車が1両で急行運転しているシーンを2011年現在もいすみ鉄道で見ることができるのは、この「松前」が原点であるといえるかもしれない。
函館について、困ったことが一つできた。
翌日、宿泊場所として北湯沢にあるユースホステルを予約していたのだが、駅で尋ねると、胆振(いぶり)線が途中までしか動いていないという。火山の噴火だから代行バスもない。
さて、どうしたものかと思った。
当時の北海道のユースホステルは、2~3か月前に往復はがきで予約をとるのが通常のやり方で、なかなか希望した所の予約をとることが難しかった。
私たちは、数日おきにユースホステルを予約して、残りは汽車の中や駅で寝るという旅行プランを立てていたこともあって、苦労してとった北湯沢のユースホステルはキャンセルするには惜しかった。
10円玉を何枚か用意して函館駅の赤電話からユースホステルに電話をかけてみると、
「だいじょうぶ。営業しているよ。胆振線で途中まで来て、あとはヒッチでもしておいで」
電話の向こうの人はいとも簡単にそう言った。
ヒッチとはヒッチハイクのことである。
アメリカの映画では見たことがあるけど、まさか自分がやるはめになるとは思わなかった。
その晩はもう1回函館駅の待合室に寝て、次の日、列車で倶知安へ出て、そこから胆振線に乗り換えた。
胆振線は倶知安から羊蹄山のすそ野をぐるっと回って伊達紋別へ出る全長80キロに及ぶローカル線で、2つ目玉の9600型SLが活躍したことで知られていたが、この時は倶知安から新大滝まで運転されていて、伊達紋別-新大滝間が有珠山の噴火の影響で不通になっていた。目指す北湯沢は、さらに2つほど先だった。
これから、火山の噴火地帯へ入るにあたり、倶知安駅のホームで持っていた水筒に「日本一の水」をたっぷり詰めてから胆振線に乗った。

[:up:]倶知安駅のホームにある日本一の水と名付けられた水道。後ろは山線経由の特急「北海」。

[:up:] 胆振線の喜茂別駅。羊蹄山を望む何とも美しい景色が私を北海道のとりこにした。
さて、噴火で行き止まりの新大滝で列車を降りると、ヒッチハイクをするために、とりあえず道路に出て歩き始めた。
ところが、車が全く通らない。
今のようにマイカーやレンタカーで北海道を旅行する人はほとんどいなかったし、噴火の影響で住民もいないのか、とにかく車が走っていないのである。
30分ぐらい歩いてやっと1台の車が来た。
ヒッチハイクなどしたことがないので、映画で見たような親指を立てて車を止めるしぐさなどできるはずがない。
木村君と2人で両手をあげて合図を送ったが、車は私たちを無視して通り過ぎて行ってしまった。
私が「チキショー!」と言うと、木村君が「バカヤロー!」と叫んだ。
そしてしばらくは車が全く来なくなった。
また30分ぐらい歩くと1台の車がやってきた。
農家で使うような軽トラックで、見ると運転席と助手席にはすでに人が乗っていたので、もう乗るところがない。
そんな車を止めても無駄なので、木村君と二人で通り過ぎるのを黙って見ていた。
すると、その軽トラックが私たちを通り過ぎたところで止まったのだ。
あれっ? と思っていると、窓から麦わら帽子をかぶったおばあさんが顔を出して、「あんたたち、どうしたの?」と言う。
炎天下、人里離れた街道筋で立ちすくんでいた私たちを心配してくれたのだろう。
事情を話すと、ユースホステルまで送っていってあげるから乗れという。
どこに乗るのだろうか、と思ったが、木村君が「荷台に乗れってことだよ」と言って、2人で軽トラの荷台に飛び乗った。
軽トラは、何事もなかったかのように、私たちを乗せて走り出した。
今思い起こせば、雲ひとつない北海道の雄大な青空に魅せられて、北海道ファンになったのは、軽トラの荷台で風を感じながら空を見上げたこの瞬間だった。
この時、私の脳にプリントされた「果てしない大空と広い大地」の景色が、それからの人生で100回以上北海道に通うことをDNAに刷り込んだのだった。
昭和52年8月。
私が北海道の魅力にすっかりはまってしまった暑い夏。
松山千春がデビューしたのもこの年だった。
(高2の夏 おしまい。)

[:up:]函館本線の普通列車。木村君(右)と鳥塚君(左)が仲良く旅をした1977年の夏だった。
【追伸】
同じ時代を生きてきた皆様へ
1977年という年は、王貞治が756号ホームランを打ち、世界記録を樹立した年。
初の国民栄誉賞に輝いた。
世はまさにピンクレディーとキャンディーズの全盛期。
沢田研二(勝手にしやがれ)、小林明(昔の名前で出ています)、千昌夫(北国の春)、石川さゆり(津軽海峡冬景色)、山口百恵(イミテーションゴールド)、清水健太郎(失恋レストラン)、狩人(あずさ2号)、森田公一とトップギャラン(青春時代) などの歌も流行っていました。
その時皆様は何をしていましたか?