なぜ 「外房」 でなくて 「そと房」 なのか


いすみ鉄道のキハ52はかつての房総東線時代の遜色急行を再現していると申し上げましたが、列車名がどうして「外房」ではなく「そと房」なのかということについて、以前にどこかでお話したことがあるかもしれませんが、若いファンの方が混乱するといけませんので、今一度お話をさせてください。
房総東線(外房線)の急行列車は様々な変遷を経ています。
私が記憶している限りですが、キハ52‐125が製造された昭和40年前後に準急から急行に格上げされて、「外房」になりました。ただし、このときは「がいぼう」と呼ばれていました。
明治生まれの勝浦のおばあちゃん(生きていれば110歳ぐらい)が大網、勝浦廻りの列車を「がいぼう廻り」、木更津、館山廻りを「ないぼう廻り」と呼んでいましたから、おそらく戦前はそのように呼ばれていたのでしょう。
昭和42~43年ごろまでの房総東線の急行列車は「外房」で、その他に臨時で「そとうみ」「フラミンゴ」なんていうのもありました。
(「フラミンゴ」という列車名は当時の行川アイランドのフラミンゴショウにちなんでと思われます。)
昭和43年10月のいわゆる「ヨンサントウ」白紙ダイヤ改正で、漢字の「外房」から「そと房」の表記に変わりました。
おそらくそれまでの「がいぼう」ではなく「そとぼう」であると、読み方の白黒をつけるための表記変更ではないかと思いますが、同時に「内房」も「うち房」と変更されています。
これが昭和47年7月の東京地下駅開業、鴨川電化まで続きました。
鴨川電化のときに房総東線を「外房線」に、房総西線を「内房線」に名称変更しましたが、急行列車名で4年間の告知期間があったことで、このときの名称変更では、すんなりと「そとぼう線」「うちぼう線」という呼び方が受け入れられました。
ただし、特急「わかしお」、「さざなみ」が新しく登場したことで、急行列車の「そと房」「うち房」は「みさき」「なぎさ」に名前が変更され、房総半島をぐるっと循環するようになりましたので、列車名からは数年間は消えることになりましたが、その後復活した際には 「外房」 「内房」 で再デビューしましたので 「そと房」 「うち房」 の表記は昭和43年から47年までの数年間のみということになります。
これが、「そと房」の経緯ですが、私は、今回のいすみ鉄道の観光列車で、この時代の昭和40年代中期、大阪万博が開催された前後の、日本が一番元気だったころの昭和をコンセプトに、ピンポイントで焦点を当てているのです。
今、70歳前後の方は、社会人として、あるいは結婚して所帯を持って毎日朝早くから夜遅くまで働くモーレツサラリーマンだったころ。
今、60歳前後の方は、学校を卒業して希望に胸を膨らませていた時代。
今、50歳前後の方は、棒を持って駆け回って遊んでいた時代、部活動に専念していた根性物語の時代。
今、40歳前後の方は、生まれたころ、物心ついたころ、両親と写した七五三の記念写真のころ。
そして、30歳以下の方にとっては、不思議な、それでいて何となく懐かしいような未知の世界。
皆さんのそれぞれの時代を、共に生きてきたキハ52の観光列車で思い出していただき、日本全体が元気を取り戻してほしいというのが私の願いであります。
どうです、鉄道趣味って奥が深いでしょう。
古いディーゼルカーでもこういう使い方で人々に夢と希望を与えられると私は確信しています。
ちなみにヘッドマークのローマ字表記の「SOTOBO」は、本当は最後の「O」の文字の上に「-」が付くのですが、私の指示ミスで、「-」なしになってしまいました。
そのうちに手を加えて直しますので、「-」なしの「SOTOBO」を撮影するなら「今だけ」ですよ。