今日は都内でインタビュー取材を受けました。
その前に自宅に戻り期日前投票をしてきました。
誰に入れるか、どの政党に入れるかは皆さんそれぞれだと思いますが、若い皆さん、選挙には行きましょうね。
消費税が高いとか、政治が悪いとか、言う資格がなくなってしまいますから。
なものですから、本日も特にこれと言って話題はありません。
につき、懐かしの写真と行きましょうか。
今夜はこの1枚です。

昭和47年か48年だったと思います。
外房線の上総興津に進入する急行「なぎざ」。
昭和47年(1972年)7月に東京地下駅ができて外房線が電化され、東京駅から183系の特急「わかしお」が走るようになった外房線ですが、113系の快速、183系の特急、さらに165系の急行が走るという、わずか120kmあまりの区間にこんなに列車種別が増えたのですが、当時は急行列車を廃止して特急へ格上げすることによって、国鉄は増収の道を走り始めました。
記憶では200kmまでの急行料金が200円。これに対して自由席特急料金が500円でしたから、2.5倍の増収となったのです。
まだ満足に高速道路もなかった時代でしたから、房総半島に車で行こうとなると半日コースでしたので、当時の海水浴ブームは皆さん電車に乗っていくだろうということで、国鉄の独占状態だったのですが、さすがにすべて特急にしてしまうと庶民感覚としては受け入れられないものがあったのでしょう。このわずかな区間に急行列車も走らせました。
で、この急行は循環急行と呼ばれまして、新宿、両国を出て房総半島を反時計回り(千葉⇒木更津⇒安房鴨川⇒大網⇒千葉)と回る列車を「なぎさ」。反対に時計回りに外房から内房を回って都内へ戻る列車を「みさき」という名前で呼ばれていました。
電車の運転はなぜか新宿発両国行と両国発新宿行となっていて、一周回るのに5時間半かかっていました。
さらに面白いのはこの急行列車は館山ー勝浦間は普通列車として運転されていて、急行列車の末端区間が普通列車になるのを「急行崩れ」などと呼んでいましたが、この循環急行「みさき」「なぎさ」はいったん崩れた急行がまた復活するという列車でした。
私はこの頃毎年勝浦のおばあちゃんちへ行ってましたので、その時に写した写真ですが、おもしろい電車なので上総興津から「みさき」に乗って安房鴨川ー館山-木更津回りで帰って来たこともあります。
でも、都内から勝浦までが急行って、ちょっとひどいですよね。
だって、例えば両国から乗って大原までなら93kmなんですが、御宿になると101km。勝浦だと106kmなのです。
急行料金は100kmまで(100円)と200kmまで(200円)、そして201km以上(300円)の設定でしたから、勝浦まで急行列車にするとわずか数キロで急行料金が倍になったのです。
ちょっとしたトリックですが、当時は御宿と勝浦が海水浴客が多かったのでこの100円が大きかったのだと思います。

ちなみに当時の急行「なぎさ」の急行券ですが、上総興津発行となっていますが、急行券の区間は勝浦から。
つまり、上総興津は普通列車区間ですから、急行列車としては勝浦からですよ、ということです。
国鉄としては乗客を罠にかけて急行料金をせしめていたような感じですが、これが昭和48年ごろの話でして、実はこの後急速にマイカーブームが進みまして、房総半島への海水浴客の移動手段としては鉄道から自動車へと変わっていったのであります。

こちらは反対回りの「みさき」です。
房総夏季ダイヤという特別のダイヤが組まれていて、長編成の特急、急行がバンバン走っていました。
これが昭和47~48年ですが、実はこの後昭和50年に沖縄海洋博というのがありまして、それに合わせて国内線の航空路線にジャンボジェットが飛ぶようになりました。
いわゆる航空輸送の大衆化というやつで、日本人のレジャーはどんどん遠くへ行くようになり、満足なホテルもなく、民宿で対応していた「近くてきれいな房総の海」へ行く人はどんどん減っていき、外房海岸にはサーファーが増え始めたのですが、そのサーファーを当時の国鉄は「サーフボード持ち込み禁止」として締め出してしまいましたので、わずか数年のうちに凋落を迎えたのでありました。
中古の自動車を買ってサーフボードを積んで海に行くようになった若者たちが、鉄道に戻るはずもありませんからね。
ベビーカーも改札口を入る前に折りたたまなければ電車に乗せてもらえない時代が昭和でありました。

2008年1月。
急行「なぎさ」を撮影した同じ上総興津で113系の千葉行き普通列車です。
8両でやってきました。
今は2両でしたっけ?
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