JR東海の須田さんのこと

JR東海の初代社長で会長、相談役までお勤めになられた須田寛さんがお亡くなりになられたというニュースが数日前に入ってきました。

神様のような方なので皆様それぞれ須田さんに対しての思い出や、尊敬の念がおありかと思いますが、私はちょっと違っています。

須田さんとは何度かお会いしていますが、最初にお会いしたのが今から15年前の2009年の秋。
私がいすみ鉄道の仕事に就いて間もないころで、九州熊本県の人吉でした。

熊本県の招きで人吉でシンポジウムを開くということで私がパネリストとして呼ばれたのです。
その時、初めて須田さんとご一緒させていただきました。

この時、控室でしばらくの間須田さんとお話をさせていただきました。

私が自己紹介すると、須田さんはこう言われたんです。

「いすみ鉄道って、昔の木原線だろう。あそこは大変だよ。なんたって線路が反対についているんだから。」

線路が反対についている。

どういうことかというと、合流する支線というのは東京へ向かって合流するのが普通なんですが、木原線は建設当初から安房鴨川の方に向かって合流している。
東京の方へ向かって合流していれば、まだいろいろ活用はある(例えば乗り入れなど)でしょうけど、反対に向いて付いているのだから大変だということです。

いかにも交通屋さん、鉄道屋さんらしい発言ですね。

で、須田さんは私に向かってこう付け加えたんです。

「いすみ鉄道を再建出来たら、あなたの銅像が立つよ。」

つまりそれだけ大変だということですけど、当時の私は就任して間もない右も左もわからない手探りの状況にあって50歳にならない時です。
その私に向かって、「再建出来たらあなたの銅像が立つよ。」というのですから、なんと上から目線で高飛車な爺さんでしょう。

私は、「こんちくしょう」と思いました。
口には出しませんでしたけどね。

だから、私の須田さんの印象は「このクソじじい」なんです。

私も若いころから交通屋ですから須田さんがおっしゃっていることはよくわかります。だけど、そういう考えで国鉄時代からずっとやって来てダメになってるわけで、「ダメにしたのはあなたたちでしょう?」と思いました。そして、その悔しさをバネに一生懸命働いたのであります。

須田さんが付け加えます。

「あなたは蒸気機関車が好きだと言いますけど、私はあんなものは一日でも早くなくなってほしいと思ってましたよ。」

ことごとくけなされたような感じですよね。(笑)

私はその時、自分の父親のことを思い出しました。

私がまだ小学生の頃、蒸気機関車に夢中になって雑誌を読んでいると、

「そんなものどこがいいんだ。昔はどこへ行くにも汽車ばかりで、イヤでイヤでしょうがなかったんだぞ。」

私の父は昭和7年生まれで須田さんと同い年。
私は早くに父と離れましたので、須田さんの言葉の中のどこかに父親の言葉を感じていたのかもしれませんね。

ちょうど鉄道百年の時、私が梅小路蒸気機関車館の記事が出ている鉄道ファン誌を見ていると、父が隣りからその雑誌をのぞき込みました。

「おっ、C57‐1だ。俺は毎日それに乗って学校へ行ってたぞ。」

私は自分を耳を疑いました。
C57‐1は新津に居て羽越本線を走っていました。
そのずっと前は水戸機関区に居たらしい。

私の父は外房線の上総興津でしたから乗ってるはずはないんです。
でも、父は確かに

「この機関車だ。はっきり覚えているぞ。それまでは286なんとかって番号だったけど、ある時からこのC57-1になったんだ。」

と言います。

当時はインターネットなどありませんから、あとで別の雑誌を調べたら確かに一時期千葉機関区に居た時期があったようで、自分の父親が梅小路に保存されている機関車の引く列車で通学していたことをうらやましく思いました。

「人吉はねえ、夜行列車に乗って早朝に到着したんですよ。その時、女性の駅員さんの声で、ひとよし~、ひとよし~と放送が流れてね、その清涼感というか、美しい声にほれぼれした思い出がありますよ。」

蒸気機関車など早くなくなってしまえばよいと思っていた須田さんの学生時代の思い出だそうです。
煙を吐く汽車に一晩揺られて朝の人吉駅に停車した時に流れる女性の声のアナウンス。
当時、女性の駅員さんは珍しかったのでとても驚いたと言われていました。

「再建出来たらあなたの銅像が立つよ。」

あの時の須田さんの一言が、その後の私の原動力になったことは確かなようです。

ご冥福をお祈りいたします。