蒸し暑い夜だった。
駅前の喫茶店の一番奥の座席。
目の前には妙齢の美女が座っている。
ちょっと下を向きながら、その美女はテーブルの上に置いた私の左手を撫ぜている。
私は右手でアイスコーヒーのグラスを持って、左手は彼女に任せていた。
その彼女の指先がもう少し私の方に近づいて来て、私の腕時計を触りながら
「気を付けてくださいね。」
と言った。
「何を?」
と私。
「あなたは有名人なんですから。」
「俺は有名人なんかじゃないよ。」
「いいえ、あなたは自分ではそうは思っていないでしょうけど、有名人なのよ。」
そう言って彼女は顔を上げると私の目を見つめながら、
「すぐわかっちゃうのよ。」
と言った。
「何が?」
「この赤い時計と、その赤いスマホ。」
「・・・・・」
「いくらマスクをして眼鏡を変えても、すぐにわかっちゃいますよ。あなただってことが。」
「だから?」
「だから、変なところで変なことしないでくださいね。」
「変なこと?」
「そう、こういうこと。」
美女は私の手をぎゅっと握りながらにっこりと微笑んだ。
いや、正確に言うと、微笑んだように見えたがその目は笑ってはいなかった。
「わかってますよね。」
私はただ無言でうなずくしかなかった。
喫茶店の店内には客はまばらだった。
彼女は壁を背にして座っていて、私は店内を背にして座っている。
おかしいなあ。
私はいつも自分が壁を背にして座り、女性を正面に座らせる。
そうすると私からはお店全体が見渡せて、女性からは私しか見えないから、私は周囲の動きに気を配りながら女性の手を握ることができるし、女性は気が散らずに私に集中できる。
でも、今は逆だ。
なぜか知らないけど、私は客席を背にして座り、彼女がお店全体を見渡しながら、誰も見ていないタイミングで私の手をにぎった。
「わかりましたか? あなたは有名人だから。」
にっこりと微笑む美女。
ふと見ると、お店の片隅で大きな蛇がこちらを見ている。
「なるほど、そういうことか」
私はすべてに合点がいった。
う~ん。
ここで目が覚めた。
「なんだ、夢か」
枕もとの時計を見ると午前4時。
それにしても今の夢は何だったのだろうか。
活動開始するにはまだ少し早い時間だけど、私は起きることにした。
「確かあったはずだ。」
そして書斎に入り引き出しを開けた。
あった、あった。これ、これ。
このところ気に入ってそればかりしている赤い時計の他に、あと2つ時計がある。
「そうだな、時計も着替えよう。」
40年ぐらい前のCMにそんなコピーがあったな。
世はバブルに向かって一直線の時代。
男性が化粧をするようになってきた走りの時代だった。
時計のメーカーが、もっと買わせようという戦略を立てて、
「時計も着替えよう」
というCMを打ったのだ。
当然私はそのCMに感化された世代。
だから、当時から時計は複数個持っていて、いろいろ着替えていたことを思い出した。
もちろん、そんな高級な時計じゃありませんよ。
だからいくつも持っているのですが。
ということで、これからは「変な所へ行って変なことをする」可能性があるようなときは、赤い時計はやめて、他の時計をしていこうと思うのであります。
これ、夢のお告げ。
でもね、不思議なことがあるのです。
実はその美女の顔が思い出せない。
夢を見たことは覚えていて、その夢の内容まではっきりと覚えているのに、お話をした美女の顔が思い出せない。
おかしいなあ。
何がおかしいかって、顔が思い出せないのに「美女」ですから。
そんなのあり?
「あなたは有名人なんですから、気を付けてくださいね。」
この言葉だけは間違っていないかもしれませんから、何に気を付けるのかはわかりませんが、とにかく気を付けることにしましょう。
なぜなら、近所のコンビニや駅のキオスクで売ってる雑誌に顔が出ているぐらいですから、気を付けなければならないのであります。
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