ロシアがウクライナに侵攻しています。
国際的に見て許される行為ではないと、日本をはじめとする西側諸国が一致団結して制裁処置をとると言っています。
戦争はいけないことだ。何があってもやってはいけないことだと教え込まれてきた世代としては、その賛否を論ずることは不要ですからやめておきましょう。
ただ、今回の侵攻の様子を見て思い出したことがあります。
以下、私が体験した、私の記憶に基づくことを述べさせていただきます。
私は東京の下町育ちです。
どちらかというと貧しい町で、私の家も貧乏でした。
家は2間しかなく、トイレと台所は共同のアパート。
お風呂は銭湯でした。
うちだけじゃなく、近所がみんなそんな感じでしたから、それほど貧乏だったとは思いませんが、大人になってみて、同じ世代のいろいろな人の話を聞くと、「あぁ、貧乏だったんだなあ。」と思う程度ですが、ビーフステーキというものをフォークとナイフで初めて食べたのが中学3年生と言えば、お分かりになると思います。
さて、その当時、友達と一緒に銭湯へ行くといろいろな人がいました。
私が生まれた昭和35年は戦後15年。
ということは、親の年代は皆さん戦争経験者です。
中には兵隊へ行って、命からがら逃げてきたり、特攻隊の生き残りだったり。
昭和40年代というのは、銭湯に来るおじさんたちも、だいたい40歳以上の人はそういう人が多かった時代です。
私たち悪ガキは銭湯で空になったシャンブーの瓶を水鉄砲にしたりしてふざけたりしていると、そういう戦争帰りのおじさんにこっぴどく叱られる。
でも、悪ガキですから、「俺は特攻隊の生き残りだ。」と威張っているおじさんに向かって、「じゃあ、非国民じゃないか。生き残っちゃいけなかったんだろう!」なんて言葉で言い返すわけです。
そうすると、それまで威勢が良かったおじさんが急に黙り込んで、下を向いちゃう。
ガキどもも、ちょっと言い過ぎたかな。
なんて反省して、体も洗わずにそそくさと風呂屋から撤収する。
そんな雰囲気が銭湯にはありました。
そんな時に、「俺はシベリア帰りだ。」と言うおじさんがいました。
「シベリアは寒くて、仕事がきつくて、大変だったんだぞ。」とおじさん。
そのおじさんは子供の心をつかむのがうまかったんでしょう。いろんな話をしてくれました。
そして、ひと通り話を聞くと、脱衣場で牛乳の入った冷蔵庫を指差して、「好きなの飲んでもいいぞ。」
ガキどもとしては、実はこれがお目当てだったんです。
私は鉄道が好きでしたから、「デゴイチってかっこいいよなあ。」なんて話をするんですが、そんな時、いつも風呂屋で会うそのおじさんが言いました。
「おじさんは5年シベリアに居たんだ。」
5年というのは今思うと抑留されていた期間のことだと思いますが、おじさんは続けます。
「シベリアというのは、2年で帰ってきたやつもいれば、おじさんのように5年もいた人もいるんだ。」
「おじさん、頑張ったんだね。」
「そうだよ。大変だった。」
「でも、何で2年で返してもらえなかったの?」
ガキとしては気になりますよね。
学校で居残りをさせられるのは、たいてい先生に叱られた時ですから、おじさんも何か悪いことをして残されたんじゃないかって。
「俺は、頑張ったんだ。でも2年で返された奴らは、すぐにソ連に尻尾を振ったんだ。」
「どういうことですか。」
「あのな、日本は天皇陛下の国だったけど、ソ連というのはそれが違うということを教えたんだ。おじさんは違うとは思わなかったけど、違うと教え込まれた連中はすぐに返してもらえたんだ。」
「ふ~ん」
「でな、そういう人たちがシベリアからたくさん日本に帰って来て、国鉄に入ったんだよ。だから国鉄はストばかりやってるだろう。」
確かに昭和40年代の国鉄はストライキばかりやっていました。
国鉄がストをやると、悪ガキどもはこの時とばかり線路を歩きだす。
堂々と線路を歩ける絶好のチャンスだったからです。
「君は、デゴイチが好きなんだろ。でもな、国鉄はやめといた方がいいぞ。」
おじさんは、そう言うと、いつものように「好きなもの飲んでいいぞ。」
悪ガキとしてはせっかくだからちょっと高いものを飲もうと、パンチなんとかというプラスチックのカップの上が銀紙でシールしてあって、ストロを差して飲むメロン味のジュースを飲みました。
コーヒー牛乳より5円か10円ぐらい高かったのです。
小学生のガキに向かって「国鉄はやめておいた方がいいぞ。」と言ったおじさんの言葉がどうも引っ掛かりまして、50年経っても覚えているぐらいですから、あとになっていろいろと調べてみました。
シベリア帰りというおじさんは同級生のお父さんにもいましたから、いろいろ話を聞いてみると、やっぱり2年で帰ってきた人や5年居た人などがいて、その違いは何かというと、どうもソ連の教育を叩きこまれてすぐに感化した人と、天皇陛下万歳を変えなかった人の違いであると、おじさんたちは言うのです。
そして、すぐに感化されて帰されてきた人たちが引揚者受け入れの受け皿になっていた国鉄に大量に入って、赤い旗を振ってストライキばかりやる集団になって、40年後になってその国鉄に見切りをつけた政府が分割民営化して、それからさらに35年が経過して北海道をはじめとする辺境の鉄道がいよいよ立ちいかなくなってきている現実を考えると、もしかして、ソ連という国は日本を骨抜きにしようという計画を立てて、それが70年以上の時を経て、今、徐々にその効果が出てきているのではないか。
今回のロシアの侵攻を見て、半世紀も前の東京の下町の銭湯で、いつも会うシベリア帰りのおじさんから聞いた話を思い出して、そんなことを考える今夜であります。
国家百年の計というのは、こうして出来上がっていくのかもしれませんね。
だとしたら、戦争に負けたことが今でもボディーブローのように効いてきているのです。
なお、この話は私の記憶に基づくものであり、歴史的事実とは異なる点があるかもしれませんが、私が子供だった当時は、まだ戦後の匂いが残っていて、大人たちは何かにつけてそういう話をしている時代でしたから、この銭湯での出来事は、なにも私だけが経験したことではないと思います。
汽車がトンネルに入ると、窓を閉めないと大変なことになるぞ。
そんなことを言っても、今の人は誰もわからないのと同じで、銭湯でシベリア帰りのおじさんに湯上りのジュースをおごってもらった話も、私が死んだら、そんなことは誰も知らないことになるのです。
そうやって、時代というのは変わっていくのでしょう。
ちなみに、私の両親は進駐軍の施設で働いていて知り合ったので、私は子供のころからアメリカ漬けで育ったのであります。
今からちょうど50年前の1972年春の青梅線。
せっかく写真を撮りに行っても春の電車はこんな感じでした。
がっかりしたけど、とりあえずシャッターを押しておいたのが今となってはいい記録です。
※シベリア=ソ連=今のロシアという表現になっています。
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