さようなら モンキーパンチ先生

私の大韓航空の後輩にとても優秀な男がいました。

仕事はできるし、素直で、頭は切れるし、汚れ仕事も何でもこなす男でした。
(過去形で話してますが、彼は今でも別の航空会社で運航管理者として働いております。)

ある時、「君はがんばり屋だし、優秀だねえ。」と彼に言ったことがあります。
私はお世辞は言いませんし、褒めておだてて仕事をさせるタイプでもありませんから、まあ、本心でそう言ったのです。

そうしたら彼は、「私なんか全然優秀でもがんばり屋でもありませんよ。」と答えました。
「私が足元にも及ばない人がいるんです。そういう人を見て育ちましたから、私なんか全然だめです。」

しばらくして、私が大韓航空をやめてからのことですが、彼のお母さまがお亡くなりになられました。
早くにお父様を亡くされ、母親に育てられたような彼でしたので、さぞかし気落ちしてるのではなかろうかと思い、お通夜に出かけました。
場所は札幌の真駒内の近くのお寺でした。

そのお通夜の晩に、一人のおじいさんを紹介されました。

「この人が、私が尊敬する伯父です。亡くなった母の兄です。」

穏やかな男性でした。

「この伯父に比べたら、私なんかは全然足元にも及びません。」

ご本人の前で、彼はそう言いました。

するとその男性は、

「なくなったこの子の母親にはずいぶん助けてもらったんです。樺太から引き揚げてきて、この子の母親は国鉄に入って仕事をしてくれました。がんばって家族みんなを養ってくれたようなものですから。本当にありがたかったんですよ。」

と仏様の前でそう言われました。

そのおじさんの名前は道下俊一さんといって、実は、北海道では知らない人がいないぐらい有名な方だったのです。

私は全然存じ上げなかったのですが。

しばらくして、その彼に「私の母の葬儀の時にご紹介したあの伯父さんが、『プロジェクトX』に出ることになった。」と言われました。

もちろんその番組を見ました。
確かにあの時の伯父さんがテレビに出ていました。

北海道の釧路と根室との間に浜中という町があります。
そこの診療所の医師として永年御勤務されたお医者さんとして紹介されていました。

北大の医局から若くして無医村に派遣された道下先生は、45年以上も札幌に帰ることができず、ほぼ一生を浜中町や釧路市のへき地医療に貢献された方としてプロジェクトXで紹介されていたのです。
かれこれ15年以上前の話ですが、ご記憶の方もいらっしゃるかもしれません。

その浜中町霧多布のへき地診療所に、その当時レントゲン技師として勤務されていたのがモンキーパンチ先生。
そのモンキーパンチ先生は、我が家からほど近い電車の駅で1つ隣りにお住まいでしたので、私自身はお会いしたことはありませんでしたが、なんだか御縁を感じておりました。

道下先生も数年前にお亡くなりになられていらっしゃいます。

今頃はあの世で昔話でもしながら仲良く一杯やっているのでしょうね。

昭和がまた1つ消えていきました。

ご冥福をお祈り申し上げます。