土地の履歴書

今日3月9日はいすみ鉄道と同い年の昭和5年生まれの私のおふくろの誕生日。

おかげさまで、どこも悪いところがなく、87歳になりました。

今日は夕方まで都内でしたので、帰りに板橋の家に立ち寄って、顔を見ながら、一緒に夕ご飯を食べました。

デパ地下でおいしいものを買って行って、おふくろと一緒に食べたのですが、ちょうど夕方のニュースをやっていて、見るとはなしに見ていると、今から72年前、昭和20年3月10日の東京大空襲の話題を特集していました。

3月10日の大空襲は、未明ですから、つまり3月9日の夜なわけで、私の母親は、15歳の誕生日だったということになります。

 

私の母の生家は板橋区双葉町にあって、つまりは80年以上ずっと板橋に住んでいることになりますが、テレビを見ていた母は、ポツリポツリと話し始めました。

 

なんだか南の方が真っ赤になってて。

中板橋と大山には爆弾が落ちた。

自分の家には焼夷弾が束のまま落ちてきて、24本束になっていて、青くて長い紐が付いていた。

もしあの束になっているのが上空でバラバラになっていたら、自分の家も、隣近所も、みんな燃えてたと思う。

近所の人が、落ちてきた焼夷弾を見て、「最近時限爆弾というのが開発されたようで、今は爆発しないけど、もしかしたら、時間がたってから爆発するかもしれない。」そういって騒ぎになったので、翌日までみんな非難した。

朝になって、南の方を見たら、たぶん両国とかの方面だと思うけど、黄色い煙が立ち上っていた。

板橋の食糧倉庫に爆弾が落ちたという話を聞いたので、兄が出かけて行って、燃えカスの中から缶詰をたくさん拾ってきた。

燻し臭い缶詰だったけど、中身はなんでもなかったので、みんなで食べた。

石鹸が溶けて大きな塊になっているのを拾ってきて、お父さんが小さい塊に分けて、隣近所に分けてあげた。

私も大山の方へ出かけてみた。

川(石神井川)から向こうは、大きな被害を受けていて、手がない人、足が取れた人などがたくさん死んでいた。

今なら恐いと思うけど、その頃は、そういうことが多くて、例えば、板橋駅は艦載機が低空で襲撃してきて、ホームにいた人たちが皆撃たれて死んだなんてことがあったりしたから、死体を見てもこわいという気持ちはなかった。

そういう人たちの体が、みんな公園に集められて、それはもうすごい数だったから、山になっているのを見た。

どこにも持って行くところなどなかったはずだから、たぶん穴を掘って埋めたんだと思う。

 

とまあ、こういう話が、はっきりと地名まで出て、話し始めて、正直今まで聞いたことない話も含まれていました。

私は87歳になったことがないのでわかりませんが、やっぱり、よく言われるように、鮮明に昔のことを思い出すのでしょうね。

 

で、思ったのですが、子供の頃、大人たちから、

そこで遊んではダメだ、とか、あっちへ行ってはいけないとか言われてたことを。

 

今日、おふくろが口に出した公園は、今でも私の子供の頃と同じ場所にあって、敷地面積も形状もほとんど当時と変わらない気がするのですが、確かに子供の頃、あまりあちらへ行ってはいけない、と言われていました。

 

私は今年57歳ですから、小学生の頃は今から50年近く前になります。

終戦が72年前ですから、私が小学生の頃というのは、終戦からわずか20数年。

今の私たちが昭和を思い出すよりも、もっと近い過去だったということになります。

だから、当時の大人たちは、ここで何があったかということをみんな記憶していたわけで、そういう大人たちにして見たら、子供たちに向かって、そっちで遊んではいけません、というのは、ある意味当然ですよね。

 

昭和40年代の板橋は、それでもそれなりに家がたくさん建っていて、原っぱなんてほとんどなかったんですが、でも、確かにある一定の地域へ行くと、柵がしてあるけれど、何も使われていない原っぱのようなところが結構あって、子供にとってみては良い遊び場だったんだけど、「そこでは遊んではいけません。」という場所だったのです。

今思えば、近くに大きな病院があったり、何かの施設があったりしたのがそのあたりだったわけですが、20数年前の一億総火の玉の時代を知る大人たちにしてみたら、いろいろなタブーがあることがわかっていたんでしょうね。

 

このところ、豊洲にしても大阪の小学校用地にしても、やっぱりいろいろある土地のはずで、所詮国有地なんてものは、特に今時まで使われずに残っているようなところは、そういう土地なんだということだと思います。

潔癖症の人たちが、白黒はっきりつけようと躍起になる気持ちはわかるけど、そういう人ってたぶん地方出身者で、その土地のことは詳しく知らない人たちなんだろうなあ。

だって、豊洲でしょう。東京生まれの東京育ちの人間としたら、昔からあまり近寄らない場所だったんですから。

豊中だって航空局の土地でしょ。

ということは、陸軍の管理していたところで、終戦後は米軍が接収していたところですから。

何でもかんでも白黒つけようとせずに、タブーはタブーとして、ふたをしておいた方が良いこともあると思うのです。

 

土地取引には瑕疵担保責任というのがあることはご存知だと思いますが、所有権移転に当たって、不利益となるような情報は開示しなければなりません。でも、それって、今の所有者が次の所有者に伝えるべき情報であって、その土地やその不動産が、10年前、20年前、あるいは50年前にどうだったなどという履歴は引き継がれていかないのです。

日本人は土地神話があると言われていますが、そんなに土地にこだわりを持って、35年もローンを払って不動産を購入する割には、その土地にどういう過去があるのかなどということは誰も気に留めない。

それならそれで、新しい時代を作っていくという点では一向に構わないと思うのですけど、じゃあ、3月10日の大空襲で10万人以上の人が一夜にして命を落として、山のようになった死体がどこへ行ったのか。間違いなく都内のいろいろなところに埋められていて、その上に、何も知らずに今、マンションになった部屋に長期ローンを組んた人たちが住んでいるわけです。

だから、議会で、いちいち、そういうことを掘り返すようなことはするべきではない。

兵器工場や毒ガス工場だった場所にマンションができているなんてところはいくつも存在するのですからね。

 

1990年代以降、東京生まれの東京育ちの人間から見たら、絶対に買わない、絶対に住まないような地域に横文字の名前が付けられて、地方出身者で東京で成功したような人たちが、嬉々として移り住んでいます。そしてその傾向は今でも続いています。

私としては、どうなんでしょうか、と思うのですが、そんなことを言ったところで、風説の流布と言われるのが落ちですから、私なら絶対に買わないのになあと思いつつ、わが世の春を横臥している皆様方にケチをつけるのはやめておこうと考えております。

 

今、私のおふくろが住んでいるマンションを買おうとしたときに、「ここなら大丈夫ね。」と言ったおふくろの一言が、いまさらのように思い出されます。

そして、そういうことを知っている人間もどんどん少数派になって行って、誰も何も言わない時代がやってくるのでしょう。

 

人間、知らなくてよいことは、知らない方が幸せなのであります。

 

東京都内に不動産をご購入になりたい方は、買って良い場所かどうか、ご相談に応じますよ。

ただし、今住んでいる人には、私は何も言わないことにしております。

 

そういう土地の履歴書が、本当はあった方が良いのですけどね。