阪神淡路大震災から22年。

今日1月17日は、阪神淡路大震災が発生した日です。

1995年ですから、あれから22年です。

 

私たちの世代にとっては1月17日というと「百恵ちゃんの誕生日」だったのですが、1995年以来、そんなことはすっかり忘れてしまいました。

実は、阪神大震災が発生する前月の1994年12月に、陰陽連絡の新路線として智頭急行線が開業しました。

私は開業と同時にデビューした「スーパーはくと」に乗って、震災のひと月ほど前に神戸を通っていました。

神戸から元町にかけて、高架線を走っている時、先行列車がつかえていたのか、スーパーはくとが減速してノロノロ運転になりました。

だからよく覚えているんです。

その時見た神戸の景色が、震災前に最後に見た光景でした。

 

1月17日に阪神大震災が発生したとき、当時私の勤めていた会社の大阪支店のスタッフが行方不明になりました。

職員名簿を見ると、住所は神戸市長田区。

一番被害が多かった地域です。

皆で心配していたんですが、数日経っても連絡がありません。

「もうだめか?」と皆さんあきらめムードになったころに、無事でいるのがわかりました。

避難所に何とか身を寄せていたのです。

「どうしてもっと早く連絡しなかったのか?」

人事担当者は怒っていましたが、私は「そりゃあ無理でしょう。避難所で混乱していて、若いからいろいろお手伝いもしていたんでしょうから。」と言いましたが、なぜなら、当時は今ほど携帯電話も普及していなくて、公衆電話は長蛇の列というのが災害時の当り前の姿だったからです。

 

助かった本人は、「いやあ、寝ていたら大きな揺れが来たので、東京は壊滅したと思ったんです。」と言うので、「なぜ東京が?」と聞くと、「だって、関東大震災が来る来るって言ってるじゃないですか。だれも神戸に大地震が来るなんて思っていないし。だから、神戸がこれほど揺れるんだったら、東京は完全に壊滅してると思ったんです。」と、東京の心配をしてくれていたのです。

無事だったから笑い話で済みましたが、あれから22年ですか。

 

その後、中越地震、鳥取地震、そして東日本大震災、昨年の熊本地震と、これだけ大きな地震がたくさん来て、そのために被災地に指定されて、被災者の方々が避難所暮らしを余儀なくされる。

体育館の床で毛布にくるまって、何週間も過ごすのが日本の被災者だとすれば、先進国って、いったい何なのでしょうか?

日本人の健康で文化的な生活というのは、世の中のシステムがすべて順調に稼働していることが前提で、電気やガスが停止したら全く役に立たないものばかりで成り立っているんです。

つまり、薄っぺらなんですよね。

 

例えば、日本の鉄道技術って世界一だと業界関係者は自負していますが、電気の供給や保安施設がすべて順調に稼働して初めて達成できる最高技術であって、そういう、日本特有のハイスペックが維持できるところは世界中であまりありませんから、開発途上の国では、そのハイスペックのあまり、使い物にならないんです。

大都市で活躍したJRの電車が東南アジアに送られて活躍していますが、実に数多くの車両が衝突事故を起こしたりして廃車になっています。ATSやATCといった保安設備が整っていることが前提で性能を発揮できる電車ですから、ATSがない国へ持って行ったら、ぶつかってばかりいるわけです。

その点、いすみ鉄道の初期車であるいすみ200形は、1両で運転できるし、冷房はついているし、線路さえあれば電気が来てなくてもどこでも走れてブラックボックスもありませんから、嫁入り先のミャンマーでは貴賓車両として使用されるほど重宝がられている。

つまり、スペックが低いんです。

それでも立派に活躍できる。

 

例えば田舎の暮らしは、家に井戸があるし、プロパンガスだし、少なくとも水道とガスが止まっても何とかなる。あとは小型の発電機が一台あれば、何とかなるんですよね。

都会のオール電化のマンションなんかだと、電気が止まったらさあ大変、ということになります。

 

だから、私は22年前の教訓をもとに、発電機を自宅に買ったんです。

飲料水は常に備えてあるし、食料も備蓄してあるし、風呂の水はすぐにトイレに使用できるようになっていて、車は瓦礫があっても走れる4WD。

こうして準備していれば、大地震が来て、電気が消えて、都市機能がマヒしても、我が家だけは明かりが灯って、温かい食べ物が食べられるわけです。

隣近所にも分けてあげられるし、助けてあげることもできる。

そう考えていたときに東日本大震災が発生しました。

 

幸いにして佐倉市は大きな被害は出ませんでしたが、停電でしばらく電気が点きませんでした。

計画停電にも悩まされました。

 

私は、今こそ準備してきたことが役に立つと思って、発電機の準備をして、エンジンをかけようとしたんです。

そうすれば、真っ暗な街中で、我が家一軒だけが、煌々と明かりが点くわけで、これこそが、事前準備をしてきた私の勲章ではないですか。

そう思って、嬉々として発電機の準備をしていたら、すぐ横で、天の声がしたんです。

 

「そんなこと、止めてください。電気なんか点かなくっても良いです。」

 

そう、カミさんの天の声です。

 

隣近所に恥ずかしい。

みんなの家が電気が消えているんだから、うちも点かなくても良いです。

そういうカミさんの天の声に、私の長年にわたる周到な準備は、全否定されたのです。

 

発電機は今でもありますから、町内会のお父さんたちが、お祭りの夜店に使うときにたまに借りに来てくれますが、それ以外の役に立つことはありません。

まあ、こういうものは役に立たないに越したことはありませんから、このままずっと使用しないことを願っているのですが、そういうスペックの低い家庭にしておくというのも、阪神大淡路震災から学んだ知恵なのであります。

 

阪神淡路大震災。

私にとって忘れられないのは、映画「寅さん」の最終作品、第48作「紅の花」のラストシーンは神戸の復興シーン。

震災から数か月の神戸で撮影して映画化したということは、寅さんも山田監督も、映画を通して何とか復興を後押ししようと考えていたのだと思います。

皆さんもよろしかったら、この作品、ぜひご覧になってください。

寅さん最後の作品ということもありますが、何度見ても涙が出ます。

 

今日は1月17日。

頭の中に、走馬灯のようにこの22年間が駆け巡った1日でした。

 

神戸もそうですが、東北も、熊本も、一日も早い復興を祈っております。