皆さんは旅行に出かける時、大きな荷物があったらどうしますか?
今ならスキーやゴルフなど宅急便で先送りしておいて、ホテルやゴルフ場に手ぶらで出かけるなんてことは当たり前ですね。
飛行機で旅行するときは、大きなスーツケースを空港のカウンターで預けて、目的地の空港で受け取ればラクチンです。気になるとすればせいぜい荷物の大きさや重量などで、一人に許されている重量を越えると超過料金を取られますから、できるだけコンパクトにまとめようとするぐらいでしょうか。
でも、昭和の時代、鉄道で旅行するときの荷物はどうしていたのでしょうか?
今のようにサッと行ってサッと帰ってくる時代ならともかく、昭和の時代は北海道や九州へは行くだけで2日も3日もかかりました。往復で1週間。現地滞在も入れれば2週間なんてのが当たり前の時代でしたから、旅行でもさぞかし大きな荷物を抱えて移動しなければならなかったはずです。
では、そういう時代は旅行客はどうしていたかというと、列車に乗る駅で荷物を預けて、到着地の駅でその荷物を受け取るというサービスが国鉄には存在していたのです。
そして、このサービスを「チッキ」と呼んでいました。
もう30年以上も前のことですから、「チッキ」を知っている人はたぶん50歳以上になるんじゃないでしょうか。
昭和の時代の国鉄には、まるで飛行機に乗るときのようなこんなサービスがあったんです。
飛行機の話で恐縮ですが、以前は航空券という紙の切符がありました。
ありましたと過去形で言うのは、今ではほとんどが電子航空券(Eチケット)になっていますから、紙の券ではなくなってしまいましたが、10年ほど前までは、航空券というものは2枚とか4枚の紙の券がクーポン状に束ねられた冊子だったのです。
そしてこの、いわゆる航空券というものの正式名称は英語で
「Passenger ticket and Baggege check」というのです。
飛行機の航空券には、基本的にお客様をお乗せする部分のticket(券)と、荷物を預かるCheck(証)の部分があって、荷物を預かった時に渡される引換証を英語ではcheck(チェック)というのですが、国鉄時代に旅行者の荷物を預かる用語である「チッキ」とは、そのチェックが訛ったものだと言われています。
明治時代に入ってきた英語を最初に聞いた日本人が「チッキ」と聞こえたのでしょうね。
おそらくそれ以来定着していた言葉なのでしょう。
訛ったというわけではありませんが、英語を知らない日本人が使い始めたために一般化した言葉はたくさんあると思いますが、今でもローカル鉄道で使われている日付を打刻する機械を皆さん何と呼びますか?
たいていの人は「ダッチングマシン」と呼びますよね?
最初に聞いた時に私はオランダ製かなと思いましたが、日付「Date」を刻印するから「Dating」。最後のeが取れてingが付いた形です。当然発音は「デーティング」となるべきなんですが、おそらく「Dating」をそのままローマ字読みをして「ダッチング」が定着したのでしょう。
聞くたびに恥ずかしくなる言葉ですが、スーパードメスティックな鉄道業界としては、誰も疑うことなくダッチングマシンで100年以上通用してきたのでしょう。「ダッチング」なんて言葉は恥ずかしいことこの上ないのですが、そう考えてみればなんとなく微笑ましく思えてくるというものです。
さて、チッキの話に戻りますが、昔の旅行者は今よりも大きな荷物を持って旅をする人が多かったわけですが、そういう人は駅の窓口でその大きな旅行かばん(当時は行李と呼ばれていました。)を預けるわけです。どこの駅にも切符売り場の横に少し低い台があって、「手荷物・小荷物」とか「チッキ」と書かれていました。
手荷物は旅行する人が乗車券を提示してその区間の荷物を預けるもので、割安の料金が適用されていましたが、小荷物は今でいう宅配便のようなもので、親戚に送る品物などを駅から送っていました。これに対して貨物は個人的なものではなくて、農産物や工業製品などをトン単位で送るシステムですから、区別されていたわけです。
▲先日訪れた銚子電鉄の外川駅。
出札口(切符売り場)の右隣にある一段低くなった窓口の跡。これが手荷物、小荷物の受付窓口だと思われます。
私が高校生ぐらいの時までは、今のような宅配便などありませんでしたから、このチッキという制度を使って、田舎へ荷物を送ったり、または田舎から届いた荷物を駅まで取りに行ったりするのが普通に見られる光景でした。
一度、秋田の知り合いから「リンゴを送った」というハガキが届きましたので、その翌日に板橋駅へ受け取りに行ったことがありますが、「まだ着いていない。」と言われ、その2日後に駅から「荷物が着いたから取に来い。」と電話がありました。
秋田の知り合いがリンゴを駅から送って、その日にハガキを書いたとして、ハガキが着くまでに2日、荷物を受け取ったのが3日後ですから、合計5日間かかったわけです。
それでは旅行者が自分が使う荷物を送るときはどうしたかというと、実際に旅行に出る2日ほど前には駅へ行って、その旅行に使う乗車券を見せて荷物を送っていたんでしょうね。そして、旅行先に到着した翌日ぐらいに荷物が目的地の駅に届くというようなことだったのでしょう。
明治時代から戦後まで脈々と続いてきたシステムでしょうが、これ以外には方法がなかったのでしょうから、当時の人たちは使いこなしていたのでしょうね。
昭和の時刻表を例に掲げてみましたのでご覧ください。
これは東海道・山陽本線ですが、急行荷物列車というのが時刻表の隅っこに掲載されていました。
1日に何本も運転されていたことがわかりますね。(クリックすると拡大します。)
▲こちらは東北本線。やはり旅客列車とは別に荷物列車が運転されているのがわかります。
この荷物列車の発駅は、東京でしたら汐留か隅田川貨物駅です。
例えば、板橋駅からチッキを送った場合、板橋駅には手荷物、小荷物を送る列車はありませんから、おそらく集配の車がやってきて、その荷物を載せて隅田川貨物駅か汐留貨物駅まで運んで、そこから荷物列車に載せていたのでしょうね。
そういうシステムになっていたのだと思います。
▲こちらは函館本線の時刻表です。
右端に46列車という荷物列車が設定されているのがわかります。
この列車は苗穂発函館行の列車だということがわかりますが、左に旅客列車で同じ46列車というのがあるのがわかります。
この46列車は札幌発函館行。
この46列車は苗穂から荷物列車として札幌へ到着し、札幌から旅客列車として函館へ向かう列車ということになります。
この列車は函館発札幌行の各駅停車の夜行列車で、周遊券で旅行している貧乏学生にはありがたい存在でした。
実際に私はこの46列車に何度か乗車したことがありますが、昭和52年当時、この列車はDD51がけん引する8両編成で、前5両が荷物、郵便車で、後ろ3両はお客様が乗る客車でした。
つまり、お客よりも荷物や郵便の方が大切な列車だったのです。
この列車の役割は、札幌地区で集められた郵便物で、長万部や函館方面へ行くものを郵袋という袋に詰めて搭載していたり、札幌で印刷された翌朝の朝刊を積んで道南方面へ運ぶものでした。だから仁木、銀山、倶知安、昆布、長万部など、途中の停車駅でホームにリヤカーを押した駅員さんが待ち構えていて、深夜にもかかわらず駅ごとに郵便と新聞、手荷物を降ろしているのを、硬い座席で眠りに落ちることができず、眠い目をこすりながら見ていた記憶が残っていますが、普通列車の夜行列車が走っていたのは、そういう役割があったということなのですね。
今なら、新聞はトラック輸送ですから、このように夜行列車で一駅ごとに荷扱いをして運んでいるなどということは考えられませんが、当時の日本はそういう物流方式だったというこのなのです。
当時の時刻表のピンクのページを掲載してみましたので、ご興味がおありの方はどうぞご覧ください。
当時は長距離を走る特急列車には荷物車が連結されていましたが、始発駅である上野駅や東京駅では、大きな荷物を持ったお客様は、「赤帽さん」と呼ばれる荷物を運んでくれる専用のおじさんにお願いして、改札口から自分が乗る列車のホームまでスーツケースや行李を運んでもらって、列車の荷物車に搭載するなどという光景もよく見られましたが、国鉄が手荷物、小荷物の輸送をやめてしまうと、いつの間にか赤帽さんの姿も見ることはなくなりました。
現在、軽自動車で荷物を運ぶ会社に「赤帽」という名前が残っているのは、この時代の駅構内で大きな荷物を抱えた旅行者のお手伝いをしてくれていた赤帽さんの名残なのです。
(つづく)
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