わが町 佐倉

昨日は夕方からいすみ鉄道応援団の皆様よく御存じの橋岡久太郎先生のところで新年会がありまして、お呼ばれされてお伺いしてまいりました。
橋岡先生は観世流シテ方の能楽師でいらして、3歳の時に初舞台を踏まれ、以来半世紀以上にわたり海外でも40以上の公演で能を舞われ、日本の伝統芸能を世界に広める活動をされていらっしゃる偉い先生ですが、とても気さくなお方で、私のような人間とも盃を酌み交わしていただける大変ありがたい存在でいらっしゃいますが、昨年、この長年の活動が高く評価され、外務大臣表彰をお受けになられました。
ということで、昨日の新年会では、その時に頂きました日本酒が飾られていたのですが、「せっかくですから飲みましょう。」ということになりました。

根が貧乏性の私は、「先生、こういうものは飲んじゃだめですよ。とっておかなければ。」と申し上げたのですが、先生は「社長、飲んでこそですよ。飲みましょう、飲みましょう。」ということでいただくことになりました。

じゃあ、せっかくですからいただきましょう。
その前に記念撮影。となりまして、先生のお弟子様方やお客様方と1枚記念撮影を行いました。
真ん中でそのお酒を手にしているのは佐倉市長の蕨和雄さん。
以前にもご紹介させていただきましたが、蕨市長は元銀行マンで、海外勤務など多くの海外経験がある国際肌の方で、私と馬が合うと言っては失礼ですが、年に数回、いろいろな会合でお会いするたびにいろいろなお話をしていただいているのですが、私の顔を見るたびに、「鳥塚さん、もうそろそろ佐倉のために働いてもらえませんかねえ。」というのが市長の口癖になっているのです。
そのあたりは微妙なお話ですから、私はできるだけ市長を煙に巻いて話をはぐらかすようにしているのですが、昨日は、佐倉機関区の話題を持ち出しまして、「市長、佐倉は歴史の町とか言ってますけど、手が届く範囲の歴史でいえば、佐倉は鉄道の町なんですよ。もっと鉄道をアピールしていただかなければ」というお話をさせていただきました。

佐倉は11万石、堀田家の城下町ですが、そういう話をし出すと、とりとめもなく奥深い世界に入って行ってしまいます。
私も、その辺の歴史を知らないわけではなくて、実際に堀田家の現在の当主でいらっしゃる堀田正典様(左端)とはお付き合いさせていただいておりますが、そういう話ではなくて、もっと身近な手が届く範囲の歴史を考えてみると、佐倉というところは鉄道の町なのであります。
昭和60年ごろまで、つまり国鉄の末期まで、佐倉には機関区があって、SL時代には佐倉の機関車が房総半島の勝浦や鴨川、館山、我孫子を経由して上野へ、そして東の銚子まで出張していたわけですから、佐倉というところは千葉の鉄道の要であったわけです。
にもかかわらず、今、佐倉の重鎮の方々や議員さんたちは、町おこしや観光戦略の過程において、「佐倉は鉄道の町だ」ということを一言も発していない。それはたぶん知らないからではないか。佐倉が鉄道の要衝であったことを、今の40代以下の人たちはほとんど誰も知らなくて、そしてそういう人たちが観光や文化、歴史を論じて、集客のツールとしていろいろな戦略を立てていることに私は危うさを感じるわけで、それはなぜかと言えば、堀田のお殿様のことは学校の歴史の時間で教えるかもしれませんが、佐倉の機関車が千葉県中の鉄道の列車をけん引していたなどと言うことは、誰も教えていないからなんですね。
終戦わずか2日前の昭和20年8月13日に成東の駅で米艦載機から爆撃を受けた貨物列車に搭載していた火薬が大爆発を起こして、勤労動員された中学生を含む国鉄職員、地元住民40名以上の方々が戦死されていることなど、誰も後世に伝えていないんです。
昔は大網から土気の急勾配を貨物列車が越えることができず、房総方面からの貨物列車は東金線を廻って成東から佐倉を経由して東京方面へ向かっていましたので、成東の駅に貨物が集散していたわけです。
まあ、そのような各種さまざま、鉄道に関する歴史がこの佐倉の町にあるわけで、映画のロケ地にもなっているし、松本清朝の小説にも出てくる。バンプオブチキンだけじゃないわけです。
私がかれこれ四半世紀前にどうして佐倉に住もうかと思ったかというと、もちろん勤務地である成田空港に近いということもありますが、佐倉が鉄道の町で、子供のころから佐倉にはたくさんの思い出があるからなのです。
そういうことを、学校でも、観光協会でも、誰も教えていない。教えたくてもたぶん誰も知らないし、知っていたとしても価値があるとは思っていない。
徳川の歴史は大事でも、鉄道の歴史や輸送の歴史は大事ではないんですね。
そこが私がもっとも歯がゆいところなんです。
でも、集客ツールとして利用するとすれば、徳川の歴史よりも鉄道なんですよね。
なぜなら、歴史を訪ねてくる人たちはもうすでに来ているお客様であるのに対し、鉄道で訪ねてくるお客様は潜在顧客であるからで、観光戦略における集客というのは、潜在需要をどう掘り起こすかということだからだと私は考えているのです。


▲佐倉を出て成田へ向かうC57牽引普通列車(昭和44年・1969年)と同じ場所の普通電車(2005年)


▲佐倉から成田方面へ向かうC57牽引列車(上)と総武本線の特急「しおさい」(下)
成田線と総武本線がわかれるあたり。ほぼ同じ場所です。(ネガがかびていて申し訳ありません。)
向こうに見える国道51号線の橋脚が当時は新しいですね。
この成田線と総武本線の並走区間では、戦前の鉄道映画「指導物語」で、機関車同士で競争するシーンが撮影されたところです。


▲成田線と分岐して南酒々井駅へ向かう総武本線。
183系特急列車の最後部付近がC58の写真を撮ったあたりと思われます。
この一連のSLの白黒写真は私の成田空港時代の先輩が撮影したもので、今から10年ほど前、ネガを譲り受けた時に同じ場所を探して沿線を歩いた時のものです。だから、113系も183系もあたり前に走っていました。


ところで、その譲っていただいたネガの中には佐倉ではありませんが、こんな写真もありました。
下総中山です。
上はC58が引く貨物列車が発車していくところ。
すごい煙ですねえ。
いちいち列車が発車するたびにこんなに煙を出されてはたまったものではありません。
当時の国鉄にはクレームがたくさん来ていたんだと思います。
下の写真は同じ下総中山を出るD51ナメクジ。千葉には2両のナメクジがいたようですが、1両はどうも蒸気上りが悪く、使えなかったみたいです。
踏切の脇に写っている「萩原牛乳・中山販売所」気になりますねえ。今でもあるのでしょうか?


さて、話を佐倉に戻して、佐倉機関区の転車台に乗るC57です。
C57という機関車は貴婦人と呼ばれていますが、この転車台に乗るC5777を見て皆さんはどう思われますか?
まず煙突ですね。こりゃいただけません。
クルクルパーと呼ばれる回転式火の粉止めが取り付けられたラッパ型。
とてもじゃないけど貴婦人ではありません。
ヘッドライトはシールドビーム2灯。これもダメですねえ。
ボイラーは角が角ばっているし。
こういう機関車を貴婦人などと呼ぶのはけしからんことです。
と、当時の先輩たちはみなさんおっしゃっていて、ガキだった私は少なからずそういう話に影響を受けているわけです。

例えばこの写真は昭和47年10月、鉄道百年の時に新橋(汐留貨物駅)-横浜(高島)を走ったC577を品川駅で写したものですが、この機関車は紀伊田辺から借りてきたもので、紀伊田辺で集煙装置を外して来たのでC57にしては煙突が寸詰まり。おまけに重油タンク付と来たもので、せっかくのシゴナナが台無しだ!などと憤慨する小学6年生だったのです。

そんな佐倉のシゴナナではありますが、こうやって少し斜に構えて流し撮りしてみると、それはそれで結構様になっているように見えるものですね。
いずれにしても、こういう考察ができるのも、私は大切な歴史だと思いますし、今の時代、自分だけの旅を探している旅人が多分日本中に100万人ぐらいいると思いますから、そういう人たちに理解していただくことで、佐倉だって新しいスタイルの観光地になれると私は確信しているのですが、皆さんはいかが思われますでしょうか。

そして今、佐倉の鉄道としてシンボル的存在なのが山万のユーカリが丘線。
一周わずか14分の小さな鉄道ですが、観光鉄道としての魅力満載の路線なのであります。
皆さん、佐倉へ観光にいらしてくださいね。
ガイドブックには書かれていないたくさんの歴史が眠っている町ですよ。
そしてそれを掘り起こすのが、旅のだいご味なのであります。
わかるかなあ?  わかんねえだろうなあ?  ←昭和のギャグです。