房総半島の民話

私が子供のころ、勝浦のおばあちゃんちの近くに「オセンコロガシ」という場所があるのに気づきました。
当時は電化される前の房総東線で、鴨川方面へ行く列車の一番前に乗って線路を見ていました。小学生でも前が見える車両ですからたぶんキハ17か何かだったと思うんですが、一番前で運転士さんのすぐ横に立って前を見ていた時、トンネルの入口に張り付けてあるトンネル名を示す板に「オセンコロガシ」と書いてあったのです。
帰ってからおばあちゃんに「オセンコロガシって何?」と尋ねると、かくかく云々(しかじか)とその名前の由来を教えてくれたのですが、いろいろ調べてみると、房総半島には大小合わせて様々な昔話があることに気づきました。
昔話が残っている地域というのは、昔はとても栄えていて人が多かったことを示しています。
今も同じですが、人がいないところには話題がありませんし、人がいなければ語り部が何百年もその話を受け継ぐこともありません。
だから、当時の房総半島はとても栄えていたということになります。
最近では「半島経済」などという言葉があるように、半島地域は袋小路の行き止まりですから経済が栄えません。
経済というのは人や物が右から左へ、左から右へと行きかうところで繁栄するからです。
ではなぜ、鉄道もないそんな何百年も昔に、経済が栄えていたかと言えば、房総半島は黒潮の流れに乗って、関西方面からたくさんの船がやってきていた場所で、当時唯一の大量輸送機関だった船便が、文化を一緒に載せてやってきて、関東地方では房総半島がその入口だったからなんですね。
勝浦のおばあちゃんは明治中期の生まれでしたから生きていれば120歳ぐらいかもしれませんが、そのおばあちゃんに鉄道ができる前の話を聞いたことがあります。
まず最初に大原まで、次に勝浦まで、その次に上総興津までというように鉄道は徐々に延伸開業していきましたが、「その前はどうだったの?」と私が訪ねると「汽船だった。」と答えてくれました。
汽車が大原までだった時代には、大原から先の区間は港から船に乗って行き、勝浦までの時代は、勝浦から先の区間へ行く人は汽車を降りて港から船に乗って行ったそうで、汽車に接続するような船便があって、その船が各港に寄港しながら、御宿、勝浦、鵜原、興津、行川、小湊、天津、鴨川と行ったのだということです。
それが明治から大正にかけてのことですから、民話の世界はさらに百年二百年さかのぼるわけで、そのころから房総半島はとても栄えていたということなのです。


大多喜町といすみ市の境に近い場所にあるこの小さな祠をご存知の方もいらっしゃると思います。
これは「夜泣き地蔵」というお地蔵様です。
京の都の戦に敗れ、ここまで逃げ落ちてきた家族の悲しいお話ですが、京で戦があったころに都からここまで逃げ落ちてくるということは、やっぱり海上交通だったということだと思います。
このお話のように、房総半島の昔話を集めた「BOSO LEGEND」というサイトがあります。
私は以前から気になっていて、もちろん冒頭の「オセンコロガシ」の話も出ていますから、以前から時間があるときにいろいろ読んでいたのですが、最近になって、実はこのサイト、いすみ鉄道にとても近い方が運営されていることを知り、とてもご縁を感じている次第です。
もちろんいすみ鉄道を応援していただくバナーも貼り付けていただきました。
ということで、皆さんもこの「BOSO LEGEND」、お時間があるときにぜひお読みになってみてください。
いすみ鉄道は「ここには何もないがあります。」と宣伝して、都会の皆様方の興味を引いていますが、実はとても深いものがいろいろあることに気づかれると思います。
秋の行楽シーズンですので、いすみ鉄道沿線の散策の一助にしていただければということでお知らせいたしました。