昭和の航空時刻表考察 その3

中学生のころ、塾の行き帰りに池袋の旅行センターに寄っては無料で置いてある飛行機の時刻表をもらってきて「熟読」していたというお話をいたしました。
当時、日本には大きく3つの航空会社があって、それぞれに国から役割を指定されていて、日本航空は国際線と国内幹線、全日空は国内幹線とローカル線、東亜国内航空は国内線の主としてローカル線というように、仕事ができる範囲が決められていました。
1970年代になると全日空もしだいに大きく力を付けてきて、「日航に追いつけ追い越せ」をスローガンに頑張っていて、国民から好感をもたれていましたし、東亜国内航空は、何とか国内線の幹線に進出しようと、ジェット機を導入して精力の拡大を狙っていました。そんな中で日本航空だけは国策で国際線を飛ばしているフラッグキャリアでしたから、おっとりとしていると言うか、のんびりしていると言うか、親方日の丸の雰囲気の会社だったのです。
さて、前回(その2)では昭和50年3月の全日空の時刻表を取り上げましたが、今日はその1年前、昭和49年3月の時刻表を見てみましょう。

これが全日空の1974年(昭和49年)3月の時刻表。
不思議なことに「3、MARCH」と書かれてはいますが、いったい何年の時刻表なのかは書かれていません。
この翌年の1975年の時刻表も全く同じで、今、コレクションを見返してみても、いったいいつの時刻表だかわからないんですね。
1975年になると右下のカレンダーの下に小さく年号が入るようになりましたが、前年の1974年にはそれすれありませんから、今考えてもとても不思議な時刻表なんです。
航空時刻表は毎月変わりますし、無料で配布しているものですから基本的には使い捨てでしょう。だから年号など不要という考えもあるかもしれませんが、やはり時刻表ですから「○○年3月号」とあるべきなのは当たり前だと思いますが、こういうところがこの会社の面白いところで、今思えば、現在の唯我独尊状態の兆しは見えていたのかもしれません。
さて、私がなぜこの1974年の時刻表を引っ張り出してきたかと言うと、表紙が「トライスター」だからなんです。
若い皆さんはトライスターという飛行機はご存じないかもしれませんが、ロッキードL-1011(愛称がトライスター)というワイドボディー機で、B747ジャンボジェットを導入した日本航空に対して、全日空が力を込めて導入した初めてのワイドボディー機が、この時刻表の表紙として漫画家のおおば比呂司さんが描かれたトライスターなのです。
そして、このトライスターが就航したのが1974年3月。だから、この時刻表は就航記念号と言うわけです。

表紙だけじゃなくて、後ろの方には写真付きで、3月10日、東京―沖縄線、4月1日、東京―札幌、東京―福岡線に就航と出ています。
その下に書かれている通り、トライスターは世界で最も静かなワイドボディー機と言われていて、「Whisper Liner」なんて呼ばれていましたし、自動着陸装置を備えた世界最新鋭機だったのです。
実は私がこの時刻表の1年後、1975年4月に初めて乗った飛行機がこのトライスターで、それから1990年代に引退するまでに数十回乗ったと思いますが、一番好感が持てる飛行機で、その1975年4月に初めて乗った機体はJA8509。そして、1995年11月に退役するときに最後に鹿児島―東京で乗った機体も同じJA8509でしたから、個人的にトライスターにはとても思い入れがあるんです。

さて、そのトライスターですが、1974年3月10日に就航したのは東京―沖縄便。
幹線時刻表を見ると、朝9時に羽田を出る01便と、その折り返し便で12時20分に沖縄を出る08便の1往復だけ。羽田に14時40分に戻ってきたらその日はもうおしまいという何とももったいない使い方をしています。
でも、これは、スタートの時点では慎重になっていたからで、とりあえず1日1往復でセンセーショナルにデビューさせておいて、各種慣熟飛行訓練などを経て4月からは札幌、福岡線に導入するということだと思います。
今のようにいきなりたくさんの飛行機を買うことができない時代でしたから、こういう形で徐々にデビューさせていき、最終的には20機以上のトライスターを保有していったわけです。
そして、私より年上の皆さんがトライスターと聞いてすぐに思い出すのは「ロッキード事件」。
全日空がロッキード社から購入契約を結ぶに際し、当時の総理大臣や運輸大臣、そして全日空の社長などの経営幹部が贈収賄で逮捕されて日本中が引っくり返るような大騒ぎになったのが昭和51年。このデビューから2年後のことでした。
ロッキード事件に関しては何冊もの本が出ていますから、今更私がどうこう言うことはしませんが、トライスター導入時の若狭得治社長は、ロッキード事件でずいぶん悪者にされていました。
でも、彼の全日空に対する功績はとても大きくて、全日空が今のように発展できたのは若狭社長だからこそという部分があるんですね。
それと、ロッキード社の贈収賄事件のきっかけになったのは、全日空は当時すでにダグラス社のDC10という飛行機を購入することが内定していて、ダグラス社は生産を開始していたのですが、それをひっくり返すために、お金をばらまいてトライスターを買わせたということなわけです。
では、ダグラス社はすでに生産を開始していたDC10をどうしたかというと、トルコ航空に納入したのです。そして、その機体は貨物室のドアに欠陥があって、パリ郊外で墜落事故を起こしたのです。
それがこの時刻表と同じ1974年3月。
ロッキード事件がなければ、そのDC10は全日空に納入され、日本の空を飛び始めて、もしかしたら大きな事故を起こしていたかもしれない。そう考えると、私は若狭社長は結果的に多くの日本人の人命を救ったことになるかもしれないと、今でも思うのです。
ということで、1970年代の全日空を語るにおいて、避けて通ることができないトライスターが初めて日本の空に就航した1974年3月の時刻表の考察でした。
皆様、ここまでお読みいただいてお気づきになられましたでしょうか。
そうです。私は全日空という会社が大好きだったんですね。
懐かしい思い出です。
(つづく)