私の最初のビジネス

小学校1年生の時に、近所に住んでいる上級生の誰かから教わりました。
コーラやジュースの空き瓶を酒屋さんに持っていくと10円もらえるということを。
私は「へ~」と思いましたが、試しに公園に落ちている空き瓶を拾って近所の酒屋さんに持っていくと、酒屋のおじさんが確かに10円をくれたのです。
その時、私は「これで生きていかれる!」と思いました。
当時の私の小遣いは1日10円。
その小遣いと同じ金額が空き瓶を集めることで手に入るのですから、これは素晴らしい発見です。
私の最初のビジネスの開始。昭和42年のことです。
私が空き瓶を集めてお金を稼ぐ目的はもちろん電車に乗りに行くこと。
学校から帰ると1日10円の小遣いを2日間貯めた20円を持って出かけます。
東武東上線の下板橋駅から初乗り大人30円で行かれるのは上板橋まで。
子供は15円の運賃です。
そして、上板橋駅まで行って、駅の周辺で空き瓶を1本拾って酒屋さんで10円もらえれば、手元の5円と合わせて帰りの切符が買える。
往復30円の電車遊びができるわけです。
私はこの方法でいろいろなところに行きました。
国鉄赤羽線の板橋駅か東武東上線の下板橋、大山を起点として、北は鶴瀬、西は中野、小田急線の祖師ヶ谷大蔵、京王帝都では明大前。
南はなくて、東は京成電車でお花茶屋、常磐線に乗って松戸で乗り換えて新京成の初富までと広範囲にわたります。
とにかく、片道分の運賃さえあれば、あとは現地で稼いで帰ってこられるのですから、行動範囲は無限大に広がっていったわけです。
小学校1年生が放課後に板橋から日暮里、松戸で乗り換えて、新京成の初富まで行くのですから、そりゃ無限大といっても良いでしょう。
ところが、いろいろトラブルにも遭遇しました。
一度など、西武池袋線で豊島園に着いて、改札口を出て空き瓶を探そうと思ったけれど、豊島園の駅は出るとすぐに遊園地の入り口で、空き瓶などあるはずもなく、結局、線路伝いに歩いて池袋まで帰ってきたこともあります。
でも、私はくじけない性格ですから、そうですね、小学校1年生から2年生のはじめのころまでは、こうやって電車に乗って遊んでいたのです。
当時、思い出に残っているのは、緑色した京王線や、今、銚子電鉄で走っている2000系の特急。白に赤い帯で、運転席の脇にヒゲが付いていた塗装です。
小田急線はまだ白に青帯になる前で、紺色の胴体に黄土色の上半身というちょっと暗い感じの塗装でした。
総武線は101系が増えてきていましたが、メインは茶色い電車。
亀戸駅は楽しいところで、下を見ると東武の電車が発着していて、反対側を見ると、越中島へ行く貨物線をD51が煙をモクモク吐いて走って行きます。
常磐線は、エメラルド色になる前で、全部の電車が茶色の旧型国電。
当時の都内は、地域ごとに発展の度合いが違っていて、城東地区へ行くと、新宿や渋谷に比べて、うらぶれた、遅れている感じがありました。
秋葉原で山手線を降りて総武線ホームへ上がると、子ども心にも歩いている人々の雰囲気が明らかに違って見えましたし、日暮里駅の常磐線ホームは、完全に別世界というか、外国のような感じがしたものです。
ずっと後になって、1988年に大韓航空の研修で初めてソウルへ行った時に、「なんだか懐かしいなあ。」と感じたのは、この時の常磐線の雰囲気でした。
常磐線の電車は明らかに違う人種の人たちを乗せてうらぶれた下町を走っていて、時折すれ違う煙を吐いた蒸気機関車に驚いたり、窓の外を見ると、東京球場のスタジアムの灯が煌々と輝いていたというのが、子供心に覚えている光景です。
京成電車は日暮里駅の跨線橋の突き当りに改札口があって、そのわきに切符の窓口がありましたが、当時は自販機ではなく、窓口での手売り。
常磐線は綾瀬に親戚がいましたが、京成電車は未知の世界。
何とか乗ろうと思いましたが、駅名表を見上げて、さて、どこまで行こうかと思ってみても、駅名の漢字が難しくて読めません。
自販機じゃないので駅名が読めなけれ切符を買うことができないのですが、何しろ1年生ですから、町屋、千住大橋、堀切菖蒲園、青砥、高砂などの漢字は意味不明なわけです。
そのとき、ふと1つの駅名に目が留まりました。
それは、お花茶屋。
ところが、「お花」は読めますが、その次の「茶屋」が読めません。
「お花」では切符は買えませんから、その下の「茶屋」を解読する必要があります。
そこで私はしばらく切符売り場の窓口の横に立って、お客さんが切符を買う時の発音を注意して聞いてみました。
自分の予算で行かれるところは、それほど遠いところではありません。だから、切符を買うお客さんで、お花茶屋へ行く人を探すのです。
そして、「お花」の次の発音に耳を凝らすわけです。
結局、「ちゃや」という発音ははっきり聞き取れませんでしたか、「お花」の次に何となくそれに似た「音」を付けて濁して言ってみたら、窓口のおじさんからちゃんとお花茶屋までの切符をゲットできました。
時は昭和42年。
総武線や常磐線にはまだ半流の3扉車が編成に入っていましたし、京成電車はデカい幌を付けたゲテモノ揃い。何しろ来る電車来る電車色も形も違いますから、それはそれは楽しい路線だったのです。
小学校1年生から2年生にかけて、こんなことを毎日のようにやっていましたから、おそらく、私は大人になっても、東京の電車の中では、総武線、常磐線に一番愛着を感じるし、今でも京成電車の沿線に住んでいるのだと思います。
だから、小さな子供たちに、いすみ鉄道に乗りに来てほしいと思うわけです。