宮古のラサ工業

津波で大きな被害を受けた岩手県の宮古市。
私が最初にこの町を訪れたのは、今から35年前の昭和51年(1976年)3月のことです。
高校受験が終わって卒業前に中学校の友達と3人で、ラサ工業の構内入換え用に残っていたC10という蒸気機関車を見に行ったのです。
国鉄の蒸気機関車はその前年、昭和50年の年末に北海道の室蘭本線、夕張線を最後に完全に引退してしまい、いざ、受験から解放されて旅行に出られるようになったときには、お目当ての蒸気機関車が目の前からいなくなってしまったのですから、今思えば我がことながらかわいそうなものです。
でも私はそんなことにはめげずに、その時残っていたラサ工業の入換え用の機関車を見る目的で、友達3人と夜行列車に乗って嬉々として出かけたのでした。
一緒に行ってくれたのはクラスメートの柴山君と石川君。
柴山君は私の著書「いすみ鉄道公募社長 危機を乗り越える夢と戦略」の151ページに出ている追分駅でのD51の写真のシャッターを押してくれた鉄道大好き少年。
石川君は鉄分はあまり多くありませんでしたが、私と柴山君のやっていることを見ているととても楽しそうなので、俺も一緒に行く、と言って3人で出かけました。
行きは上野から急行「津軽」の自由席に乗って奥羽本線の大曲へ。客車はスハ43。上野を出るときの牽引機は厳ついパンタグラフのEF57でした。
翌朝、大曲に到着し、田沢湖線のDE10が引く客車列車に乗り換えて盛岡へ出て、山田線で宮古に入りました。
どうして奥羽本線経由で行ったのかと言えば、行きと帰りで同じ道を通りたくなかったことと、羽越本線はすでに乗車したことがあって、奥羽本線はまだ未乗だったからだと思います。
当時の田沢湖線は非電化でしたが、雪景色の中、雫石という駅を通った時に、「全日空の727が落っこちたのはこのあたりなんだ。」と思ったことを覚えています。
宮古の浄土ヶ浜から遊覧船に乗って海猫に餌をあげながら田老に入り、泊ったのは田老町を見下ろす高台の上にあった国民宿舎でした。
翌朝、いよいよラサ工業へ向かうべく田老から宮古線(現三陸鉄道北リアス線の一部)に乗りました。
当時、今の三陸鉄道となっている田老から普代までの区間は未開通で、田老-宮古間は国鉄宮古線と呼ばれ、1日4往復の区間列車が走るだけのさびれた路線でした。
田老の駅は当時はホーム片面の折り返し駅で、キハ52が単行で折り返し運転をしていましたが、車内は結構乗客が多くローカル線といえどもガラガラではありませんでした。


まだ、国鉄がローカル線のワンマン運転を始める前で、車内もクロスシートがほとんどの原型状態ですから、ワンマン化改造された今のいすみ鉄道のキハ52とはずいぶん雰囲気が違います。

宮古の駅は今とほとんど変わりませんが、違うのは走っている車。
左に見えるのは三菱のギャランGTOでしょうか。
私は今も車は三菱ですが、このころから三菱はカッコいい車を作っていました。
駅裏から河原に出て手作りのような心細い橋を渡って反対側にあるラサ工業に行き、挨拶をして構内に入ると、あとは自由に歩き回ることができました。
今思えばおおらかな時代でしたが、ラサ工業の皆さんは暖かく接してくれた記憶があります。
C10の8号機が稼働中でしたが、構内には奥の方にC11がもう1両休車状態で保管されていたようです。
ラサ工業には山田線の磯鶏(そけい)駅へ伸びる貨物専用線が敷かれていて、その輸送に蒸気機関車が使われていました。



ほぼ1日ラサ工業の構内で過ごしましたが、お昼休みには機関車も休憩に入りましたので、その間に機関車によじ登ってナンバープレートの拓本を取りました。
夕方の列車で盛岡に出て3人で夕ご飯を食べた後、帰路は上野に向かう寝台特急「北星」に乗りました。
当時、寝台特急といえば東京駅から九州方面へ向かう「さくら」「富士」「はやぶさ」などが主流でしたが、九州特急を最新の14系客車に置き換えて余剰となった20系を東北に回して誕生した寝台列車が「北星」でした。
「北斗星」じゃなくて「北星」というのもなんとなくうらぶれた東北の夜行列車の雰囲気があって感じが出ていたように思います。
子供だった私は、多少車両は古くても、寝台特急はやっぱりわくわくした思い出があります。

発車前の盛岡駅で、20系寝台車独特の顔を持つカニ21の前で記念撮影。
左が柴山君で中央が石川君。右が私です。
私って言わなければ私と解ってもらえないところが悲しいですが・・・
今、とてもうれしく思うのは、このときラサ工業まで会いに行ったC10型機関車の8号機は、その後廃車解体を免れ、大井川鉄道で現在も活躍していること。
自分の思い出の鉄道車両が今でも走っているのは、とてもありがたいことだと思います。
きっと、キハ52にも同じ思いを抱いていらっしゃる方がたくさんいらっしゃるのでしょうね。
心が豊かになれるのもローカル線ならではと思いませんか?
最近はどこもかしこも立ち入り禁止にして部外者を締め出す傾向がありますが、鉄道マンの皆様、博物館やイベントだけでなく、日常の鉄道を、このように小さいときから社会教育として鉄道を啓蒙すること、あこがれの対象として見てもらうことも、私は大切な仕事の一つだと考えますが、いかがでしょうか。
私にとって、岩手県の宮古市は心のふるさとでもあるのです。
だから、他人事とは思えずにいるのです。
本日は古いアルバムから35年前に行った宮古の蒸気機関車のお話でした。