カマ焚き よもや話

いすみ鉄道で今働いているスタッフの中には、むかし蒸気機関車に乗っていた人たちが何人もいるというお話は以前にもさせていただいたと思いますが、私は、社長として、そんな、今となっては逆立ちしても経験できないような経験をされた方々と一緒に仕事ができる幸せを、毎日味わっております。
休憩時間や、仕事の合間に、ちょっと聞かせていただいた昔話を、皆様にもご紹介させていただきたいと思います。
題して 「カマ焚き よもや話」
カマ焚きとは、もちろん、蒸気機関車の機関助士のこと。
石炭でお湯を沸かし、蒸気を安定して供給する、キツイ仕事のことです。
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房総の国鉄路線は、千葉駅から放射状に広がる総武本線、内房線、外房線の3路線と、佐倉、成田で分岐する成田線が主たる路線ですが、この図式は、今も昭和40年代とほぼ同じです。
強いて変わったといえば、大網駅の位置と、東金線との接続の位置関係。
昔は、大網駅は今の場所から東金線の福俵駅方面に数百メートル離れた場所にあって、千葉から来ると、勝浦方面への列車は方向転換するスイッチバック形式の駅でした。
機関車の基地となる機関区は新小岩と佐倉、蘇我、そして成田に置かれ、それぞれに乗務員が配置されていました。
いすみ鉄道で私の隣の席に座っている鉄道部長の川上さんは佐倉機関区の所属で、当時は成田線、総武本線の列車に乗務されていたようですが、当時の千葉の鉄道で最大の難所は、房総東線(外房線)の大網から土気(とけ)に向かう連続上り勾配。
この勾配を越えることができないため、茂原、勝浦方面への貨物列車は総武本線の佐倉、成東を回り、東金線経由で運転されていたほどです。
この難所は、千葉方面へ向かう上り列車が特に大変で、坂を登りきれずに立ち往生した列車を、後ろからもう一台の機関車で後押しした話は、いすみ鉄道の 「けむり饅頭」 のしおりに掲載させていただいております。
先日、検修係の小関(おぜき)さんと話をしていたときに、土気を越えるときは特別の石炭を使ったんだ、という話を教えてもらいました。
当時の小関さんは蘇我機関区に所属し、主として外房線、内房線の列車に乗務。土気を越える列車は両国発勝浦行の列車で、C57という蒸気機関車が引いていました。乗務は2日間にわたる行路で、夕方両国を発車。夜、勝浦に着いて、勝浦で一晩停泊したのち、翌日の早朝の上り列車となって両国まで戻ってくるという運用です。
「前の日に機関区を出るときに、燃料係が、特別に大きな塊炭(かいたん)と呼ばれる石炭をテンダ(機関車の後ろについている炭水車)の一番後ろの部分に積んでいてくれて、翌朝の列車で勝浦を発車して、大網の駅で機関車の方向を変える時間に、大網駅の職員が、その塊炭をすぐ使えるように炭水車の一番前に移動させておいてくれるんだ。」
そう、蒸気機関車ですから、折り返し駅では列車の反対側に機関車を付け替える際に、転車台で機関車そのものの向きを反対に向ける作業が必要になります。
水の補給もありますから、大網では反対方向に向かうため10分程度停車して、この作業を行うわけです。
小関さんは続けます。
「大網で発車の前に、この特別大きな石炭を焚口にスコップでたくさん放り込んで、安全弁が吹きあがる直前の状態で発車し、そのまま焚き続けると、土気まで一気に登り切るんだ。水面計とにらめっこしながら蒸気の加減に気を配ってね。コンビを組む機関士によっては蒸気をどんどん使うから、気が気じゃないけど、夢中でくべていると大網で係員が山盛りに前の方へ寄せてくれた塊炭が、土気に着く頃にはほとんどなくなってねえ。でも、土気まで来れば、あとはほとんど蒸気を使わずに蘇我まで転がっていくようなものだから・・・」
千分の25の上り勾配が約5km続く、房総最大の難所。
そこを越える男たちの奮闘ぶりが目に浮かぶようです。
みんな、良い仕事してきたんだなあ。
そういう人たちと、今、毎日一緒に鉄道の仕事ができる私は、幸せ者でございます。
どうです皆さん、いすみ鉄道で一緒に働きたくなるでしょう。

[:up:]大網駅を出て峠に向かって猛然とダッシュするC57型蒸気機関車

[:up:]峠に向かって連続上りこう配を登る。時速は20キロ位まで低下する。「何だ坂・こんな坂」 機関車の息遣いが山にこだまする。
昭和43年。撮影:川上部長