奈良から戻りました。

今日は奈良から戻りました。

島田市の市長さんたちと国交省に陳情に行ったのが7日。
そのまま東京に泊まって翌日は鉄道模型コンベンション。
9、10日と大和鉄道まつりで西へ東への行脚が終わりました。

奈良から京都乗り継ぎで帰ってきましたが、京都駅は大混雑でした。

昨日は東海道新幹線も一時運転見合わせをしていましたし、今日は九州新幹線が大雨で運休だったようですが、線状降水帯で九州各地では大きな被害が出ているようです。

先日来日豊本線や肥薩線が止まっているようですが、九州ではJR在来線各線の他、おれんじ鉄道や熊本電鉄などでも運転見合わせが続いているようです。
大きな被害が出ないことを祈っています。

今日のニュースを見ていたら、今回の九州の大雨は「昭和47年以来の記録的な豪雨」と言ってました。
昭和47年というのは1972年のことで、今の時代まだ生まれていなかったという皆さんがほとんどだとは思いますが、私は小学校6年生でしたので、昭和47年のことはいろいろと記憶しています。
何しろ鉄道百年の年でしたから。

で、昭和47年の記録的豪雨で何があったのかというと、7月5日に四国の土讃線繁藤(しげとう)駅の裏山で土砂崩れが発生し、停車中だった列車が飲み込まれて谷底に転落して多くの犠牲者が出ました。

この写真は数年前に撮影した繁藤駅ですが、黄色い事業用車両の裏山が崩れて、下の写真の一番右側の線路に止まっていた高松行の列車を谷底へ落してしまった事故で、NHKのニュースで土砂に押し流された客車が折れ曲がって下へ落ちているシーンが放映されたのを覚えています。
樹木の生え方に違いが見えると思いますが、奥の杉の部分の手前の部分が崩れたところです。
この列車は大雨でこの繁藤駅で数時間足止めを食らっていたところに土砂崩れが発生して、多くの人命が失われました。

そしてその翌日、今度は南九州の肥薩線の真幸(まさき)駅で土砂崩れが発生して、この時は列車の被害はありませんでしたが、民家が流されて、確か今でも1名の方が生き埋めになったまま発見されていないと記憶しています。
真幸駅のホームにはこの時に押し流されてきた大きな岩石が災害の記憶としてそのまま保存されていると思いますが、昭和47年の豪雨災害はこのように国鉄が大きな被害を受けたのです。

今、雨量計が基準値を超えるとすぐに列車を止める手配が取られますが、そういう鉄道会社の姿勢に対して「昔はもっと根性があった。」という人もいるようですが、例えばこの繁藤駅でも高知発高松行の列車が高知駅を出て繁藤駅まで来たところで足止めを食らっていたわけで、もし最初から高知駅を出発させなければこんな被害には遭遇しなかったとも考えられるわけで、過去の苦い経験の上に立って、現状の対策があるのだということは皆さん知っておいていただきたいと思います。

まぁ、50年前の出来事をすぐに思い出す私のような人間も少数派になってきますから、だんだんと風化していくのでしょう。
先日のニュースでもやっていましたが、原爆から80年ですから、近い将来被爆者ゼロになる日も来るわけですし、明日は日航ジャンボ機事故から40年です。
こうして月日が経過して行くと、当時のことを知る人がどんどん減ってきていますから、あえてニュース等で取り上げて行かないと今の規定や制度がどうしてできたのかということがわからなくなってしまいます。

航空機事故に関しては日航ジャンボ機事故ばかりが取り上げられがちですが、その理由は日航機墜落事故の規模が世界最悪のもので、墜落まで30分という乗客を恐怖に陥れた時間の長さなどが衝撃的だったからですが、航空事故原因の中では戦後に日本で発生した10数件の航空機墜落事故のすべてが再発防止に役立っていると私は考えていて、つまり日航ジャンボ機事故以外にも多くの人命が失われていて、その尊い命の犠牲の上に今の航空安全があるわけで、鉄道の安全も同様に過去の教訓から成り立っているということは、職業として輸送に従事する人たちはもちろんですが、利用者の皆様方に対しても何らかの形で伝えていかなければならないと思っています。

「3回も4回も死んだ」51年前のあの日、なぜ山は崩れたのか…60人犠牲の土砂災害から考える“2次災害”の脅威 | 高知のニュース・天気|KUTV NEWS | KUTVテレビ高知 (1ページ)