「もうこんな時間。そろそろ行かないと。」
ボクの前でコーヒーカップを置いた美女が言った。
カップの縁を指でこすりながら口紅の跡を消す。
いつもの彼女の癖だ。
夜景の見えるレストラン。
付き合い始めてもう2年になるというのに煮え切らないボクがいた。
彼女が最後のコーヒーを飲み終えるのを待って、二人は席を立った。
ホームには2本の列車が並んでいる。
魔法が消える時間だ。
「ねえ、長いわ。ひと月も会えないなんて。」
美女がボクの手を取ってつぶやく。
「そうだね。」
日曜日のこの時間、別れを惜しむカップルがホームのあちらこちらに見える。
たいていは男性を見送る女性の姿。
でもボク達は逆で、ボクが美女を見送る側で、彼女が電車に乗って行く。
いつも思うけど、どうも苦手だ。
見送るより見送られる方がいい。
突然鳴り響く発車のベル。
隣のホームから1つ前の列車が今出ようとしている。
振り返ると閉まったドアに隔てられる二人がいた。
ボクはため息をついた。
あと数分でこの列車も発車する。
意地悪なテストだな。
昔からテストは苦手ではなかった。
どちらかというと得意な方で、何回も何十回も受けてきたし、たいていのテストはパスしてきた。
でも、このテストはどうも嫌だ。
目の前に停まっている食堂車。
もう営業していない姿がさらに寂しさを掻き立てる。
美女はボクの目を見ていた。
ねえ、いいの?
私、帰るわよ。
帰っちゃうわよ。
言葉は聞こえないけど、目がそう言っていた。
たぶん今が人生の中で一番大事な瞬間かもしれない。
「すみません。」
気が付くとボクはすぐ横の小さな窓から顔を出している車掌に声をかけていた。
「この電車、席空いてますか?」
「はい、大丈夫ですよ。」
発車のベルが鳴り響くホーム。
美女は「えっ?」という顔をした。
「ボクも行くよ、一緒に。」
どうして?
彼女の眼は困惑していた。
「とりあえず乗ろうか。」
ボクは彼女の肩を抱いて列車に乗り込んだ。
発車のベルが鳴りやんでドアが閉まった。
本当は消えるはずの魔法が、もう少し力を貸してくれるようだ。
「9号車の4ABにお座りください。」
車掌が声をかけてくれた。
「君を送っていくことにした。」
「ねえ、いいの? 明日お仕事でしょう?」
「まあね」
「本当にいいの? 次で降りてお帰りになって。」
「いや、行こう」
2人で座席に着くと、彼女がボクの手を握ってきた。
「うれしいわぁ。ありがとう。」
「ちょっと堪えられなかった。」
「なにが?」
「君を見送ることに。」
見送るだけじゃない。
この美女との関係に煮え切らない自分に我慢ができなかったのかもしれない。
窓の外を街の灯が溶けて流れていく。
その灯がやがて漆黒の闇に変わった。
2時間後、ボクたちはタクシーに乗っていた。
川の向こうのお寺の町へ彼女を送っていく。
「ありがとう。うれしかったわ。また電話するね。」
満面の笑顔で彼女は車から降りて行った。
「もう一度駅まで戻っていただけますか?」
運転士さんにそう告げて後ろを振り返ると彼女が大きく手を振っていた。
23:50発か。
まだ20分あるな。
ホームには雪が降り始めていた。
彼女が住むこの寒い街にコートも着ないで来てしまった自分に気が付いて、少しおかしくなった。
「まぁ、いいか。」
ボクは苦笑いをしながらポケットから煙草を出して火を点けた。
雪のホームに流れていく紫煙。
こういうのもいいのだろうなあ。
人生だから。
同じ時間であれば同じ場所で生きていきたいな。
ボクの中での魔法は当分消えそうにないと思った。
煌々とヘッドライトを照らして列車が入ってきた。
車内に入り指定された寝台に潜り込むと、ボクは一瞬にして深い眠りに落ちていった。

「ねえ、そろそろ起きないと、遅れますよ。」
耳元で聞きなれた声がささやく。
目を開けると同じ時間を同じ場所で生きてきた美女が笑顔でそこに居た。
あぁ、そうだな。
また新しい一日が始まる。
あの時、あの意地悪なテストにパスしていたことを、ボクはずっと後になってから気がついた。
シンデレラ・エクスプレス 今井美樹 Miki Imai “Dialogue” Composed by Yumi Matsutoya (youtube.com)
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