相馬御風は鉄道ファンだった という仮説

田舎の鉄道を預かるようになってから、私は「仮説を立てて、それを実証する。」ということをやってきたように思います。

大学の研究論文のように聞こえるかもしれませんが、商売というものは基本的には仮説を立てて実証するものだと思います。
どういう商品が誰に売れるのか。
そういうことを仮説として考えて、実際に売っていくことが商売です。
すでに町中にあふれているような商品を販売するのであれば、開拓者の後をついていけばよろしいのですが、ローカル線を未来に向かって存続させるといった、今まで誰もやってこなかったこと、あるいはいろいろな人たちがやっては来たものの、うまく行っていないことにチャレンジするときには、私は「仮説を立てて、実証する。」ということ以外に、やり方はないと考えています。

例えば、「ローカル線は観光資源になる。」という仮説を立てたとしましょう。
今から13年前の当時は誰もそんなことを言っていませんでした。
当時私が考えたのは、鉄道が観光資源になるということは観光客が来るということ。観光客が来れば鉄道運賃収入だけでなく、地域も潤うし、地域が有名になれば地域にとって鉄道が必要不可欠な存在になる。
そうなれば存続できるだろう。
という仮説です。

では、どうやってそれを実証しますか?

観光資源というのであるならば、観光客を呼ぶツールであるということです。
観光客が来たくなるような仕掛けを作ることです。
そりゃ、一部の鉄道マニアであれば黙ってたってやってきますよ。
でも、そういう一部の人たちに頼って来て、ローカル鉄道は立ちいかなくなってきているのですから、他の人たちを呼ばなければなりません。

当時私が考えていたのは女性を呼ぶこと。
ローカル鉄道会社はこの部分をやっているところはありませんでしたから、何とか女性に来ていただく仕掛けを考えて、ムーミン列車を始めたのです。

また、観光客は土休日にやってきます。
ローカル鉄道が忙しいのは平日の通学時間帯ですから、ピークはバッティングしません。ということは今あるリソースで対応できる。

こんなことを考えて実証してきたのであります。

さて、先日、糸魚川市の雪崩遭難百年の慰霊にお伺いさせていただきました時に、市の学芸員の方から相馬御風(そうまぎょふう)のお話を聞きました。

私はこの手のお話しはまったく無知でして、相馬御風という人はうちの3男坊の通っていた大学の校歌を作った人ぐらいの認識しかなかったのですが、学芸員さんのお話を聞いて、私なりにいろいろ調べてみて、もしかしたら「相馬御風は鉄道ファンだったのではないか。」という仮説を立てています。

今、百年近く前のこんな書籍を手に入れて、むさぼるようにとはいきませんが、見え辛い老眼の目でペラペラとページをめくっているのですが、このあいだ教えてもらった随筆にこんな文章があるのです。
ちょっと長くなりますが、皆さんも読んでみてください。

相馬御風随筆「汽車に寄する思」(昭和17年 野を歩む者61号より)

私の住んでいる家は、田舎町のどちらかというと静かな部分に属するところにあるが、停車場が 近いために汽車の響きや汽笛の音がずいぶん騒々しい。といって少なくとも三百年以上先祖代々が 生き且つ死んできたこの宅地を離れるということは、よくよくの事情のない限り私には忍び難い。 そればかりでなく、騒々しい汽車の響きも、慣れるとさほど苦にならないものである。

そういえば、停車場よりもっと近いところまで日本海の波が打ち寄せている。時には宅地内まで 大浪の打ちあげることさえある。しかし、その方はいかにすさまじくても一向平気である。この方 は汽車とちがって、怖るべき危険を伴っているのであるが、生まれてはじめて物音が聞こえるよう になってから聞き慣れてきたために、どんなすさまじい波音も気にならない。慣れるということは 妙なものだとつくづく思う。

それにしても、静かな夜更けに独りでじっと聞いていると、波の音にも限りない思いが寄せられるとともに、汽車の音にも無量の思いが寄せられる。 そしてそれは深く雪の積もった冬の夜更けなどには格別である。

ふか雪にうもれてを聞く波の音よるはこの世のものとしもなし

これは去年の冬の夜更けに詠んだ歌であるが、まったくそのような時にはいわゆる「世外」の感 往々にしてそぞろなるものがある。

それに比べると、汽車の音はそうした場合殊に世にかかわる思いを深からしめる。とりわけすさまじい吹雪の音の底から響いてくる除雪機関車の、あのさびしい汽笛の叫びの如きは寒風を冐(お か)し雪と闘いつつある人々の身の上にいやが上にも思いを寄せさせずにおかない。

私たちの町に鉄道の通じたのは、今から三十数年前であるが、荒れ狂う日本海岸の断崖つづき十 余里というようなこんな嶮岨(けんそ)な土地に、よくもよくも鉄道が通じたものだと私たちはむしろ驚嘆せずにいられなかった。 そのために費やされた資材や費用はとにかく、そのためにいかに多くの人々の、いかに大きな心 身の労苦が費されたであろうかを思う時、私たちは「道を開く」「道をつくる」ということの重大性 をさまざまな点から考えずにいられないのである。

しかも、道はただひらかれただけでは、いつしか荒廃する。それを防ぐためには常に道を護る人 の労力が費されなければならぬ。又その道を進む機関の安全を確保するためにも同様である。

この「道をひらくこと」、「道を護ること」そして「道を進むこと」、この三つのことを深く考える ことは、ひとり鉄道についての大問題だけにとどまるものではない。 汽車に乗り歩く人は多い。又貨物を鉄道に托して送る人は多い。しかしそれら無数の人々のうち の幾人かが果たしてよく以上の三つのことに思いを致しているであろうか。 おもえば、私たちが汽車に乗って安全にらくらくと遠方へ行くことが出来るということだけでも 決してそれはおろそかに思ってはならないことである。

汽車に乗り歩く多くの人々の中にはボーイさんにチップをやる人がこれまで多かったが、誰かよく風雪の夜、炎熱の昼「道を護る」ために日夜働きつづけている人々に感謝を寄せたであろうか。 又誰か汽車を安全に動かし進めるために日夜働きつづけている人々に「ありがとう!」を云わずに いられなかったであろうか。 「道」はひらきつくる人のみによって全きを得ない。常にそれを護る人があらねばならぬ。又常 にそれを進む人があらねばならぬ。 しかも道をひらきつくる人必ずしも道を護る人ではない。又護る人は進む人と同じではない。 私たちはこのことを深く考えると共に、道を行くべく常に以上三者の存在に深く思いをいたさね ばならぬ。

日一日と冬が深まっていく。やがては例年の通り風雪の日が多くなり、寒さが夜々に加わっていくであろう。 家の周囲が数尺もの深い雪にとりかこまれ、往き来の人の足音も聞こえなくなる日も、そう遠くないであろう。 そうした静けさの中に独坐して更けゆく夜半に、私はいかに深い思いを寄せつつ汽車の響きや汽笛を聞くことであろう。 東京行の急行列車の過ぎるのは午後十一時である。その響きは私に二十三年一度も行ったことのない東京をおもわせる。又漫然と旅を思わせ、旅する人々の心を思わせる。 だが、それら以上に、私は汽車の道を護る人々と、汽車の道に汽車を進ませる人々の労苦について深く考えさせられる。

相馬御風は糸魚川に生まれ育ち、駅からほど近いところに家がありました。
夜ごとに聞こえる汽車の汽笛に耳を澄ませていたことは確かなようです。

彼が鉄道ファンだったかどうかは多くの研究者がいろいろ調べていらっしゃることですので、私がそこへ割り込むことはしませんが、そう仮説を立てたとすると、ではどうやって実証するのかと考えた場合、私は、多くの労苦を持ってここに鉄道を敷設した先人たちに敬意を表して、この鉄道をどうやって有効に使っていくかを実践することではないかと考えるのです。

50年とか百年の時間が経過すれば世の中は変わります。
鉄道を建設した当初の目的はすでに終了しているかもしれません。
では、建設当初の目的が終了したら、もう要らないのでしょうか?

鉄道を存続させるということは、田舎の町を存続させるということであり、この国は多くの田舎の町から成り立っていることを考えると、この国を将来にわたって存続させることにつながると、私は考えます。

そういう時に、どうやって今あるものを有効に活用するか。
これができるかどうかというのが実証になる。

相馬御風がふるさとの鉄道にこれだけの思いを馳せていたことを知った今、今度は私がそれを実証していく。つまり、先人たちの思い、未来に向かってこの鉄道をつないでいくことだと、切に考えるようになったのであります。

2月3日の百年慰霊の場で、きっと、先人たちが私にそう伝えてくれたのではないか。

そんな気がしてならないのであります。

糸魚川歴史民俗資料館「相馬御風記念館」