あれから25年

今日は阪神淡路大震災が発生してから25年を迎えた日でした。

早いもので四半世紀です。

あの朝、テレビを点けると神戸が燃えていました。

ヘリコプターの中継でアナウンサーが「神戸が燃えています。」と叫んでいました。

その時勤めていた会社は大阪に支店があって「みんなは大丈夫なんだろうか。」と仲間の顔が浮かびました。

会社へ出勤したら神戸市長田区に住まいがある一人の職員と連絡が取れないと言われました。

私は組合の役員をやっていたので人事に確認したところ、全くわからないとのこと。

状況がどんどん悪化する様子がテレビから映し出されて、絶望感に襲われました。

その後彼とは4日ばかり安否が不明でした。

後日談ですが、その神戸市長田区に住んでいた職員の人は避難所に逃れていて無事でした。

「何で連絡しなかった?」と問い詰めたところ、「避難所の電話が長蛇の列だったんで掛けられなかった。」と言われて、こっちはどれだけ心配してたと思うんだ!と呆れましたが、まだスマホもラインも完備していませんでしたから、本人を責めても筋違いでしたと後で反省しました。

別の職員は、「俺は日本は終わったと思った。」と言いました。

「どうして?」と聞くと、

「大阪がこんなに揺れたんだから、東京はもっとひどいことになっていると思った。」とのこと。

東京には近いうちに大地震が来ると当時から言われていましたから、大阪がこんなに揺れるんだから、東京は壊滅しているだろうと思ったのも無理有りませんね。
日本人の誰もが大阪や神戸に大震災が来るなんて考えてもいないことだったんです。

そんな不意を突かれたのが阪神淡路大震災だったと思います。

あの後、日本はとても大きな災害に見舞われるようになりました。
ただ、大都市が震災に遭って、交通機関が麻痺して復旧までに数年を要したという、そういう事態は初めてだったと思います。

5000人以上の方がお亡くなりになられたということを無駄にしてはいけないと、あらためて感じた日でした。

私はその数日前に開業したばかりの「スーパーはくと」に乗って大阪から神戸を通って山陰に向かいました。高架線から見た神戸の街並みが妙に印象に残っていますが、そのわずか数日後に大きな震災に見舞われるなど夢にも思っていませんでしたので、とても他人ごととは思えないほどショックだったことを思い出します。

忘れてはいけない日になりました。

私の世代では1月17日というと心の恋人の山口百恵さんの誕生日という印象があるのですが、すっかり影が薄くなってしまった日でもあります。

百恵さん、61歳のお誕生日、おめでとうございました。

とりとめもない本日の日記でございます。