"BUFFET" あなたは何と読みますか?

BUFFET。

英語ですが、あなたは何と読みますか?

 

ブフェ:イギリス人

バフェ:アメリカ人

ビュッフェ(またはビュフェ):日本人(それも中年以上)

 

日本ではビュッフェと教わりました。

そう、国鉄時代の食堂車です。

それも、椅子に座ってゆっくりと食べる食堂車ではなくて、カウンターでの立ち食いスタイル、あるいは止り木的に小さな椅子のある大衆的な食堂車。こういう車両のことを「ビュッフェ」と呼んでいました。

 

イギリス人やアメリカ人が「BUFFET」と言う場合の意味は立ち食いの、あるいはセルフサービスのレストランのこと。

「LUNCH BUFFET」などと言いますが、日本ではこの言い方はしませんね。たいていは「バイキング」と言います。

これも不思議な感じがしますね。外人にはバイキングがセルフサービスの食べ放題レストランと言っても通じませんからね。バイキング料理と言うのは多分別の意味になってしまいます。

 

さて、その日本の「ビュッフェ」ですが、食堂車すらなくなってしまった現在では、ビュッフェなど知る由もありませんが、かつての国鉄時代には、特急列車は食堂車でしたが、急行列車はビュッフェが連結されていて、旅人に食を供していました。

 

人生の大先輩である鉄道写真家の南正時先生が、ご自身のFACEBOOKページの中で、この急行列車のビュッフェ(以下ビュフェ)についてお話をされていましたので、私も懐かしくなって古い時刻表をひも解いてみました。

 

 

山陽新幹線が岡山まで開業した1972年3月号の時刻表の最初のページです。

食堂車・ビュフェという表記が見えます。

 

ビュフェは新幹線の電車にもあって、新幹線は乗車時間が短いので食堂車は不要だという考えでしたが、昭和50年に博多まで開通し、乗車時間が6時間近くになると、食堂車+ビュフェという編成に変更されました。

 

さて、本日取りあげるビュフェは急行列車の立ち食い食堂車。

ディーゼル急行にはありませんでしたが、電車急行には「サハシ」という形式で、編成に組み込まれていました。

「サハシ」、つまり普通車と食堂車の合造車両ということになりますが、1両20メートルの車両の半分をビュフェにして、残りの半分を普通座席車としていました。

 

 

こちらが時刻表のピンクのページに掲載されている編成表。

大阪から北陸線方面への急行「ゆのくに」。

赤枠で囲いましたが、7号車がビュフェです。
直流電車と交直両用電車の両方に「サハシ」がありましたから、かなり広範囲でビュフェが連結された急行列車が走っていたことになります。

 

▲新宿からの中央線方面の急行「アルプス」。

 

▲名古屋ー金沢間の急行「兼六」。

 

▲上野から信越線方面へ向かう急行「妙高」「信州」。

ビュフェが連結されている列車は急行列車とはいえグリーン車が2両連結されているところを見ると、特急を補完するそれなりの優等列車だったことがわかります。

▲上野から東北線方面へ向かう急行「まつしま」「ばんだい」。

 

こちらは同じように1編成中にグリーン車が2両ですが、途中の郡山で会津若松方面の編成を切り離すために、それぞれの列車にグリーン車が連結されていて、仙台行の方にビュフェが組み込まれています。食堂需要としては会津若松よりも仙台行の方があったということがわかります。

仙台行「まつしま」編成の方が自由席の割合が多いのは、この当時、東北本線には特急「ひばり」や「はつかり」など多数の特急列車が設定されていましたので、急行列車は気楽に乗れる列車で、指定席を取るなら特急に乗るということだったのでしょう。これに対し、会津若松へ行く「ばんだい」編成の方は、特急「あいづ」が1日1本だけでしたから、会津若松へ行くメインの列車ということで、指定席需要が高かったのでしょう。50年近くも前の時刻表をこうして見るだけで、当時の輸送需要がわかるというのは、時刻表というのは立派な資料であり、読みこなすことができるということなのであります。

 

さて、そのビュフェの中ではどのような食事が出されていたのでしょうか。

こちらが同じ時刻表の巻末に記載されているメニューです。

 

 

左から新幹線(ビュフェ)、在来線(食堂車)、在来線(ビュフェ)です。

 

 

在来線ビュフェの部分を拡大してみました。

ちょっと斜めになっていて見づらいと思いますが、いくつかピップアップしてみると。

 

ランチ 300円

うなぎご飯 450円

幕の内 250円

カレーライス 180円

天ぷらそば 150円

月見そば 100円

もり・かけ 60円

ビール 200円

コーヒー・紅茶 100円

 

と、こんな感じになっています。

南先生や由利高原鉄道の春田社長さんによると、北陸線や東海道本線の急行列車のビュフェは「寿司屋」になっていて、寿司職人がカウンターの中で握り寿司を握ってくれた列車や、信越本線の急行列車では「そば屋」になっていたりしたそうですが、当時小学校6年生だった私は、小さい窓が並んだサハシが編成に入っているのを見て、「いいなあ。乗ってみたいなあ。」と思っただけで、高嶺の花の叶わぬ夢でした。

 

 

ちなみにこちらは時刻表の欄外の駅弁価格表。

今1000円の高崎の「だるま弁当」が250円ということは、だいたい4倍になっているということですから、今の感覚で言うと、ランチ1200円、天ぷらそば600円、ビール800円、コーヒー400円ということになりますね。

 

ではなぜ、当時はこんな急行列車でも食堂の営業ができたのかと考えると、当時は高度経済成長時代で、団塊の世代の皆様方が就職する時期でもあり、日本の農村には供給できる豊富な労働力がありましたから、こういう列車に乗って、きつい仕事に従事してくれる人たちもたくさんいたのでしょう。実際に私も高校生の頃に食堂車に乗務した経験がありますが、当時の食堂車の従業員はたいてい集団就職で田舎から出て来た人たちでしたし、揺れる列車の中での立ち仕事は、かなりきつい仕事だったことを記憶しています。

 

でも、それにしても、当時の国鉄は、お客様に快適にご利用いただくために、いろいろなサービスをしていたということがお解りいただけると思いますが、それに比べると今の鉄道会社は、「儲からないことはやりません。」と、寝台車、食堂車、そして車内販売もやめてしまうという何たる「ていたらく」だと私は思います。

お客様に快適なご旅行をお楽しみいただくという基本的な考え方を完全に失ってしまっています。

同じなのは、特急料金だけ。

どうせなら、特急料金もやめてしまえばよいと思うのですが、それだけはやめませんね。

航空会社はその昔、国内線のジェット便に「ジェット特別料金」というのを加算していましたが、ジェット機が当たり前になって、やっぱりおかしいのでやめた経緯があります。でも、鉄道会社は、特急が当たり前の時代になったのに、サービスはやめても、料金だけはいただきますというのは、どうも虫が良すぎると私は思います。

 

サービスはないけれど、料金を特別に徴収するから、特別急行列車だということなのでしょう。

 

国鉄の残党たちが、今でもどんどん鉄道をダメにしていく構造がそこにあるのであります。

 

若い皆様方に、国鉄ががんばっていた時代があったということを知っていただきたいというのが、本日のブログの主旨であります。

 

南先生、ありがとうございました。