旅行の歴史 3

人間というのは時々非日常体験が必要です。

その代表的なのが旅行で、自分が住んでいるところ以外へ行ってみたいというDNAが細胞の中に多分あるのでしょう。

遥かな土地への憧れとでもいうのでしょうか。

そういう気持ちがあるのが人間ですから、戦後、経済状態が良くなるにつれて、観光旅行というものがだんだんと広まってきました。

 

広まってきたというのは、貧しかった人たちが徐々に生活に余裕ができるようになってくると、少しずつ旅行をする人が増え始めてきたのが昭和30年代からで、昭和40年代に入ると、多くの人たちが年に1回か2回ぐらいは、日帰りや1泊程度の観光旅行へ出かけるようになりました。

海外旅行はまだまだ高嶺の花というか、最初から選択肢に入っていない時代でしたか、国民宿舎や企業の保養所など比較的安価で泊まれる設備が増えて来たので、皆さんそういうところに出かけては非日常体験を味わって、明日への英気を養ったものでした。

 

というのが前回までのお話でしたが、昭和40年代も後半に入ると、今度はだんだんと遠くへ出かけるようになってきました。

 

そのきっかけとなったのが昭和45年(1970年)の大阪万博で、日本中の人たちが大阪万博へこぞって訪れるようになりました。

私も行きたかったのですが、我が家はそんな経済的余裕はありませんでしたので、指をくわえて見ているだけでしたが、クラスにだいたい2人ぐらい、大阪万博へ連れて行ってもらった友達がいてうらやましいなあと思いました。

大阪万博へ出かけるというのは、当時の東京の庶民の家庭ではかなり背伸びをしていたと今思い出してもそう感じます。

 

その2年後の昭和47年には今度は沖縄がアメリカから返還され、それまでは渡航書類が必要だった沖縄へ誰でも行かれるようになると、その3年後の昭和50年(1975年)には沖縄海洋博覧会が開催され、日本全体に沖縄ブームが起こりました。

 

前回申し上げましたが、このころから房総半島のような海水浴場は急速に観光客の姿が減り始めました。

何しろ、日本人にとっては沖縄という、きれいな海のイメージが広まって、経済的に豊かになった人たちは沖縄やあるいは鹿児島県の与論島などの白い砂浜があこがれの場所となったのです。

そうやって、日本人はだんだんと遠くを目指すようになりました。

 

では当時の東京の若者たちはどうしていたのかというと、大人たちの姿が消え始めた湘南や房総の海水浴場にこぞって押しかけるようになりました。

 

今の若い人たちは知らないと思いますが、「新宿・原宿・御宿」という言葉がありました。

女の子をナンパする場所という意味で使われていましたが、房総半島の御宿(おんじゅく)というところは、それほど若い女性であふれていたのです。

地元のおじさんたちが今でも何かにつけて二言目には「昔は良かったぞ。」というのはこの頃のことを思い出してなんですが、そんな時代は長くは続きませんでした。

当時の都会の若者たちは房総半島の海岸線には昭和50年代の前半にはすでに見切りをつけていて、ではどこへ行ったかというと、竹芝桟橋から東海汽船の船に乗って、新島や神津島、式根島などへこぞって出かけるようになりました。

ちょうどその頃サザンがデビューして、湘南海岸が脚光を浴びましたから、「海へ行きたい」という文化は多分一番盛んだったころだと思いますが、日帰りで行くのなら湘南海岸。泊りがけで行くのなら伊豆七島というコースが当たり前になって、房総半島からは若い人の姿が消えて、入れ替わりにサーファーが増え始めたのがこの時代です。

私が18歳から20歳ごろ。青春真っ只中の時代でしたが、私は鉄道旅行が目的でしたから、リュックサックを背負って北海道へ行くことに夢中になって、海へ行くというようなことは全くやっていませんでした。

 

それからは飛行機の時代になりましたから、沖縄ばかりでなく、グアム、サイパン、ハワイといった海外旅行へ学生でも行かれる時代になりました。1980年代の話ですが、日本人の渡航自由化からわずか15年ぐらいの間に、国民宿舎に泊まる一泊旅行から海外旅行に出かけるようになったのですから、考えてみれば日本人は急速にすごい「進化」を遂げたと言えるのです。

 

その後、ご記憶のように日本人はバブルにまっすくに突き進んでいきました。

旅行もどんどん派手になってきて、隣りの人が沖縄へ行ったと聞けば、「じゃあうちはハワイへ。」

隣の人がハワイへ行ったと聞けば、「じゃあうちはヨーロッパ。」というように、どんどんエスカレートしていきました。

 

当時の日本人にとって、旅行というのは、「できるだけ遠くへ行って、できるだけ高いホテルに泊まって、できるだけ上等なものを食べる。」ことになって行ったのです。

 

その時代から30年が経過して、当時のそういう時代を過ごされた方々が、今、60歳代後半から70歳代になっているわけですから、JRが豪華列車を走らせるという話を聞けば、「海外旅行は散々出かけたし体力もきついけど、話のタネにこれなら乗ってみましょうか。」となって、1列車30名程度であれば、たとえ50万円、100万円という金額であっても満席になるという現象が起きているのです。

 

(つづく)