嫌韓でもなく、嫌華でもなく。

すごく不思議なんですが、最近の日本人は韓国や中国を嫌いますね。

 

昨日も書きましたが、特に40代以下の人たちでしょうか。

何かにつけて韓国や中国を侮蔑するような発言が多いのが気になります。

売り言葉に買い言葉ではありませんが、お互いに嫌いあっているように見えます。

 

でも、私の親の世代、つまり70代以上の人たちがこの国の主流だった時代には、皆さん中国をお手本として、中国を見習って生きていました。

孔子、孟子の思想など、大学へ行くような人たちは普通に暗記していました。

私の父も、よく私に「子曰く(しのたまわく)・・・・」で始まる言葉を言い聞かせていました。

私の「亮」という名前も、諸葛孔明からいただいたと父から聞きましたが、つまり、自分の息子の名前に、中国人の名前を付けたわけですから、それだけ中国人や中国文化にあこがれの念を抱いていたことがわかりますし、中国を尊敬していたわけです。

わずか30年ぐらい前までは、そういう人たちが世の中にたくさんいて、例えばマスコミの幹部にもふつうにいらしたわけです。

今でもその名残が見られるとすれば、例えば書店のビジネス書のコーナーへ行けば、「孫子の兵法」などと言う中国の歴史書から学んだビジネスマン向けの本がたくさん売られていることで、つまり、中国からそれだけ学ぶものが多いということなんです。

 

韓国だって同じです。

日本の文化の基本的な部分は朝鮮半島から伝来したものです。

朝鮮半島で戦乱が起きて、時の政権が滅亡しました。

これが「百済・高句麗の滅亡」です。

当時の政権者というのは、簡単に言うとお坊さんや学者たちで、つまりは知識階級だったわけですが、そういう僧侶や学者たちは新政権に殺されてしまいますから、国を追われて逃げてくる。

「焚書坑儒」(ふんしょこうじゅ)って聞いたことありますか?

書物を全部燃やしてしまい、学者を皆生き埋めにしてしまうということですが、当時の中国や朝鮮では、政権が変わるとそういうことが行われてきましたから、国を追われて逃げてくるわけで、その逃げ着いた先が日本ということです。

時は7世紀。日本は石器時代から飛鳥時代になったころで、遣隋使を中国に派遣して文化を積極的に取り入れていた時代ですから、当時の日本はまだ原住民みたいな人たちがあちらこちらにいた時代です。

そこへ文字や教養を持ったいわゆる知識人たちがたくさんやってきて、日本全国に土着していったんです。

原始的生活をしていた土人たち(当時の日本民族)から見たら、知識があって、教養があって、着ているものもきれいで、踊りや音楽も上手な人たちが来れば、当然大人気になるし、地域に溶け込んでいく。あるいは地域のリーダーになっていく。

この伝来文化の影響で全国各地に国分寺や国分尼寺が建立され、儒教や仏教が普及して、国が治められていったのです。

簡単に言うと、日本民族や日本文化はこうやって成り立ってきたわけで、鉄道ファン的に言えば、「百済」とか「高麗川」なんて駅名が存在する(した)のは、その当時の名残なわけです。

日本の学者は否定していますが、日本語だって朝鮮語の影響を多く受けているということは、朝鮮語を勉強してみればすぐに気付くことなのです。

 

さて、このように考えてみると、日本人は、古来から中国や韓国を見習って生きてきたということは歴然とした事実です。

では、どうして、今、こんな風になっているかというと、ひとつは世代の交代。昨日のブログでも書きましたが、中国の書物を読み漁った時代の人たちは、今や少数派になっているということ。もう一つは、政治でしょうね。

特に、今の共産党政権は、宗教やそれに関連する文化をすべて否定することから始まっていますから、お寺や神社にお参りするなどということも否定している。韓国だってご覧の通りの内乱状態で、北朝鮮に至っては独裁政権のようだし。

でも、それは時の政権の話であって、その下で生活している一般市民には何の罪もないわけです。

強いて言えば、日本に対しての歴史教育で洗脳されているということと、急に金持ちになったから、お金の使い方や、マナーなどができていないということですが、そういう所を、きちんとケアしてあげて、教えてあげて、お互いに良くなっていくことが、私たち民間レベルでやるべきことなのではないでしょうか。

 

少なくとも、今、中国や韓国を嫌いだと思っている人たちは、30年前、50年前の日本人がどうだったか。どういう生活をしていたかも含めて、知る必要があるし、その上で考えていく必要があるのではないかと思うのであります。

 

年の瀬に当たり、来年のテーマはこの辺りにあるのではないか。

これは何も中国や韓国ばかりでなく、JR北海道や、いすみ鉄道のようなローカル線の問題も、30年前、40年前にどういう考え方や議論があって今に至っているのかを振り返ってみることで、解決の糸口になるのではないかと考えてみたりしています。

 

何しろ、私の「亮」という名前は、中国人からいただいたのですから。

 

だから私は嫌韓でもなく、嫌華でもないのです。

 

(つづく)