昭和の残照 11

今日はなんとなく頭がボーっとしておりまして、そういう時は昔の写真を眺めていたりする自分に気づきます。

 

私は鉄道が好きで、特に蒸気機関車に強いあこがれを抱いていた少年時代を過ごしましたが、ちょうど中学3年生だった時に蒸気機関車が全廃されて、高校受験を前に、私の気持ちは不完全燃焼に終わったわけです。

 

その頃よく考えていたのは、どうしてあと4~5年早く生まれてこなかったのだろうか、ということで、4~5年早く生まれてきていれば、高校生や大学生として、アルバイトをしながら好き放題蒸気機関車に乗って、思う存分写真が撮れたのではなかろうかと思っていたわけですが、この世に生を受けたのは何の因果か、めぐりあわせでありますから、それはしょせん無理な話であります。

ならば、どうして、これだけ人気がある蒸気機関車を、目の敵のように次から次へと廃止していくのか、せめてあと5年ぐらいは走らせてくれたってよいのではないか。そうすれば、4~5年早く生まれたのと同じように、高校生になって、大学に入って、思う存分蒸気機関車を追い掛け回すことができたはずだ、とまあ、こんな風に考えていたわけです。

 

実は、その気持ちはかなり後まで引きずっていて、40歳ぐらいまでそんなことを考えていたのですが、最近、少し考え方が変わったというか、やっぱり、昭和50年に蒸気機関車が全廃するスケジュールで進んでいたことは間違いではなかったのではなかろうか、と思うようになってきたのです。

 

▲中央西線 上松

 

▲米坂線 手ノ子

 

というのは、こういう列車が走っているということは、駅を発車していくたびに、煙をモクモク吐いていくわけです。

田舎ならまだしも、住宅地なら、そりゃあ迷惑な話ですよ。

細い一本の煙草の煙だって迷惑だっていう時代に、ありえませんからね。

 

▲総武線 下総中山

 

こんな感じでモクモク煙を吐いて、列車が発車する度にですよ。

 

あの昭和40年代に消え去ってしまったから、今でも「懐かしいなあ」と思ってもらえるのであって、あと5年10年走っていたとしたら、沿線にはマンションが立ち並ぶし、線路際まで民家が密集するようになったわけですから、そりゃあ迷惑極まりない。おそらく社会の悪者というレッテルを貼られていたに違いないんです。

だから、昭和50年に蒸気機関車が全廃したのは、ある意味「潮時」だったということなのです。

 

とまあ、最近ではこのように考えることにしています。

 

ただし、蒸気機関車を全廃してからの国鉄の凋落ぶりは誰の目にも明らかで、つまりは「経営」とか「サービス」というてんで国民からは見向きもされなくなりましたから、あれだけ人気があった蒸気機関車というものを、もっと大切にするべきだったとは今でも考えますし、その大人気の蒸気機関車をまるで親の仇のように片っ端からつぶして行った国鉄の幹部連中には、私は今でも「大ばか者」というレッテルを貼り続けているのであります。

 

例えば、北海道に1か所でも機関区を残して、そこでイベントではなく実際の運用として車両管理をすれば、特に今のような北海道の凋落はここまでひどくはならなかったであろうし、そういうことができる経営者であれば、鉄道離れもここまで進まなかったのではないか。

という考えは今でも変わっておりません。

 

何とかしなければならないのは、鉄道ではなくて、その鉄道をどうしようもない状態にしてしまった偉い人たちなのであります。