あれから40年!

キミマロさんではありません。
今日で沖縄返還、本土復帰から40年ということです。
私の小学校の同級生に上原君という人がいました。
上原君はお父さんとお母さんが沖縄の出身でした。
とても運動神経が良く、活発で、私など足元にも及ばない運動の達人でした。
走るのも、サッカーも、野球も、何をやらしても抜群でした。
小学校に入学したのが昭和42年ですから、沖縄はまだ返還前で、外国でした。
とても遠いところというか、想像もできないところでした。
あるとき、上原君が夏休みに沖縄へ帰ることになりました。
「沖縄ってどうやって行くの?」と尋ねると、鹿児島まで汽車で行って、そこから船に乗ると言います。
「へえ、じゃあ『はやぶさ』に乗れるんだ。」と言うと、特急じゃなくて急行列車だよって答えました。
まだ小学校低学年で、時刻表を読み始める前でしたから、鹿児島へ行く急行列車が何だかも、どんな車両かもわかりませんでしたが、今思えば東京駅を10時ちょうどに発車する「桜島・高千穂」あたりだったのだと思います。
寝台特急の「はやぶさ」なんて当時、ふつうの人が家族連れで乗ることなどは一般的じゃなかったのかもしれませんし、第一、切符が取れなかったと思います。
「桜島・高千穂」号だとすれば、翌朝に着く門司の駅で鹿児島本線廻りの「桜島」と日豊本線廻りの「高千穂」が切り離されて分かれて西鹿児島に向かう列車ですが、当時のことを考えれば、九州内はC59やC60といった蒸気機関車に引かれていたのでしょう。
東京から一昼夜(一晩ではありません、24時間です。)かけて鹿児島まで行って、そこからさらに船に乗るのですから、片道3日、往復で1週間かかる大旅行です。
2学期になって上原君が学校に出てきたときに、沖縄の話を一生懸命聞いたのを覚えています。
それに何より目の前にいる上原君が、実際に汽車と船を乗り継いで沖縄へ行ってきたということに「こいつは何てすごいやつなんだ。」と軽い嫉妬を覚えたものでした。
沖縄というのはそれだけ遠いところ、想像もできないところだったわけです。
その沖縄が6年生になったときに日本に返還されました。
お父さんお母さんが沖縄出身で、クラスの誰もが行ったことがない沖縄に行ったことがある上原君はクラスの人気者で、本当にスターのように見えました。
今日はあの日から40年経ったということなのですね。
上原君とは卒業してから会うことも無くなり、今どうしているかはわかりませんが、私は私なりに沖縄を理解しようと、今では年に3~4回も沖縄を訪ねる人間になりました。
報道を見ていると米軍基地のことや経済格差のことなど、沖縄を取り巻く様々な難しい問題がクローズアップされていますが、私はそういう報道ではなく、自分の肌で感じる生の沖縄に接することが勉強だと考えていますし、とにかく自分の目で見ることが大切だというのが基本ポリシーですから、どれだけ理解できるかはわかりませんが、自分の足で出かけてみているのです。
今では飛行機で日帰りも可能になり、40年前とは距離感が全く異なりますが、やっぱり自分で足を運んで、自分の目で見てみると、何か違ったものが見えてくるような気がします。
確かにエトランゼとしては「うわべ」だけしか見ることはできないかもしれませんが、少なくとも私は沖縄に対する偏見などありませんし、「おじい」や「おばあ」からいろいろなことを教わっている気がします。
沖縄には私たちが忘れてしまったような時間の流れや、人への思いやりなどがたくさん残っていることをとても感じますし、だから、疲れてくると何度でも行ってみたくなるところなのです。
皆さんもぜひ自分の足で、目で、そして舌で確かめてください。
私は今から風呂に入って、その後「久米仙」を味わいます。
これが1日で一番幸せな時間なのです。