商売の原点

私は商学部出身です。
でも学生時代はほとんど勉強はしませんでした。
なぜ商学部を選んだかというと、ゼミに「交通論」があったから。
時刻表ばかり見て勉強しないと、いつも親から怒られていたので、交通論を専攻すれば、時刻表を読むことイコール勉強になる。
つまり、堂々と時刻表を読めるようになるから。
ただそれだけの理由。
だから商学部出身といっても偉そうなことは何一つ言えません。
ただ、商売については子供のころから叩き込まれていたから、
難しいことはわからなくても、お客様が気持ちよくお財布のひもを広げて、
お客様のお財布の中のお札を、こちらのお財布の中に移動させることについては、得意分野なのです。
その私の商売の原点
小学校のころから親戚の魚屋さんでお手伝いをしていた(させられていた)こと。
当時、父方の親戚が世田谷で魚屋をやっていた。
寿司屋と魚屋を一緒にやっている当時としては先進的な店だった。
その家には子供がいなかったので、私をかわいがってくれて、電車に乗りたい一心で、毎週のように手伝いに通っていた。
昭和46年ごろの話。
世田谷といえば当時は高級住宅地。
近くには有名人の家もたくさんあった。
あるとき、俳優の宝田明さんの家から注文があった。
「アキラ、配達に行っておいで!」
おばさんにそう言われて、私は宝田明さんの家にお寿司を届けに行った。
配達が終わって戻ってくると、「宝田さんはいたかい?」とおばさんに聞かれた。
「ううん、いなかったよ」と私が答えると、
「それじゃあ、いったい誰にお寿司を渡してきたの?」とおばさん。
「あのね、庭でステテコはいて水撒きしているおじさんがいたから、その人に渡してきた。」
その話を聞いておばさんは大笑い。
「その人が宝田明さんだよ。あんた、知らないのかい?」
宝田さんといえばスーパースター。
まさか庭でステテコ姿で水撒きしてるとは思わなかった。
もっとも、顔もよく知らなかったけどね。
あるとき、別の家の配達に行った。
大きなお屋敷。
勝手口から入ることを知らず、玄関から「お待ちどうさま」と声をかけると、
廊下のはるか向こうからニコニコ笑いながらその家のおばさんがやってきた。
お寿司を渡して、おばさんに、「ありがとうございました。」というと、
おばさんは、「こちらこそ、ありがとうね。」と言った。
そのやり取りが気になったので私はこう尋ねた。
「おばさん、僕はお寿司を配達に来て、お金をいただいたから、ありがとうございます、というけれど、おばさんはお金を払う側なのに、どうして僕にありがとうって言うんですか?」
おばさんは、しばらく私の顔を見てから、こう言った。
「あのね、あなたのおうちがお寿司屋さんじゃなかったら、あなたがお寿司を届けてくれなかったら、私たちは美味しいお寿司を食べることができないでしょう。だから、おいしいお寿司を作ってくれて、届けてくれて、ありがとうって言うのよ。」
確か小学校5年生ぐらいだったけれど、この時の光景は今でもはっきりと覚えている。
小学生の自分にとって、よっぽど衝撃的な出来事だったようだ。
そのころまで、私は商売ということは悪いことだと思っていた。
商品を右から左に渡すだけでマージンを取る。
70円で仕入れて100円で売って30円の利ざやを稼ぐ。
かんたんに言えば、お客様にうそをついて30円だまし取っている。
だから、歴史でも士農工商と「商人」が一番下なのだ。
単純にそう思っていた私にとって、高いお金を払った側から「ありがとう」と言われたことは、それまでの常識を覆させられる大きな衝撃だったのだ。
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5月11日に私の著書が講談社から発売されました。
いすみ鉄道公募社長 危機を乗り越える夢と戦略
お寿司屋さんの丁稚時代の話もこの本に詳しく出ています。
お読みいただいた皆様から、「面白かった!」 「一気に読み切った!」とうれしいお言葉をいただいております。
どうやら、私にとって当たり前の話でも、皆様にとっては奇想天外な話のようです。
よく、知り合いから言われる言葉。
「君の頭の中はどうなっているのか?」
この本をお読みいただければ、私の頭の中がきっとご覧いただけます。
皆様、どうぞよろしくお願いいたします。
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それにしても凄いのは、私がお寿司を配達していた小学生のころから、キハ52は走っていたのですね。
自分の人生とともに歩んできた同志のような気がします。
皆さんも子供のころを思い出してみてください。
46歳以下の方でしたら、自分の人生のいつのポイントでもキハ52は走っていたのですよ。
とても他人とは思えませんね。
鉄道車両って「凄い!」