My 信越本線 ストーリー

今から10年ほど前に妙高市が一般の方々から募集した信越本線の思い出をまとめた「My 信越本線ストーリー」という冊子を妙高市役所の課長さんが見せてくれました。

「社長さん、こんなものがあるんです。以前、市がまとめたものなのですが、いい話がいっぱい入っていると思います。ぜひお時間のある時に読んでみてください。」

そう言われてお預かりしたのがこの冊子です。

たくさんの皆さんの思い出が詰まった文集ですが、今日から折を見て1つずつご紹介して行きたいと思います。

どうぞお付き合いください。

**************************

瞼を閉じると蘇る

新潟市 立山さゆり(60代)

母は中頸城郡鳥坂村(妙高市)の産。
成人して直江津町(上越市)の旧国鉄機関士に嫁ぎ、一子〈長女の私)を儲けた。
母は正月と盆には、幼い私の手を引いて実家へ帰った。
実家へは歩くほか、汽車で行くしか手段はなかった。

母と私はD51が牽引の八両編成の普通旅客列車で、直江津駅から新井駅へ。
新井駅から実家へは国道4キロを歩かねばならぬ。
だが残暑の未舗装の国道4キロを歩くことは焦熱地獄の苦しみであった。
バスやトラックが通ると土埃が舞い上がり目も口も開けられぬ。おまけに幼い私の手を引いていた。

やむなく線路沿いの田圃の畦道を歩いた。
当時は今日とは違い引っ切りなしに旅客や貨物の列車が往来していた。
母と私は列車が近づいてくると立ち止った。
列車の機関士や旅客の誰彼なしに向かって両手を大きく振り続けた。
すると機関士や旅客の誰も彼もが応えるように母と私に両手を大きく振り続けてくれた。
ただ機関士だけは二秒ぐらいではあるが。

実家では二泊三日を過ごした。
未だ健在であった祖母は別れしなに
「もう行くか。身体には気を付けろ。正月にはきっと来いや。待っているすけ。」
と目に涙を溜めながら言った。
「母さんも身体に気を付けてねや。夜風は身体に障る。早寝早起き、腹八分だよ。正月にはきっと帰るすけ。」
母は真顔で応じた。

新井駅までは往路と同じ畦道を歩いた。
やがてD51が牽引の八両編成の普通旅客列車がホームに到着。
母と向かい合い着席した。
窓外には妙高山の雄姿。夕日を浴びて満山紅葉かと見紛うばかりに赤々染まっていた。

野良に働く人影もあちらやこちらに見られた。
鴉の群れが鳴きながら西の空へ飛んで行った。
ゆっくりと列車は直江津駅に止まった。

66歳の私が今でも瞼を閉じると昔の光景がありありと蘇る。
幼い私が母に手を引かれて線路沿いの田圃の畦道を歩く。
驀進するエスエルの長くて野太い汽笛が鳴り響く。
おそらく私は死ぬまでこの光景を忘ぬだろう。

*************************

新潟市の立山さゆりさんという方のご寄稿ですが、鉄道ファンでもなんでもない女性の方だと察します。
でも、思い出の中にしっかりと鉄道があるんですね。
10年前の文章ですから今では70代になられていらっしゃると思いますが、いつまでたっても忘れない子供の頃の思い出のなかにD51が走ってるなんてすばらしいと思います。

信越本線の妙高高原-直江津間がトキ鉄になって4年半ですから、10年前といえば「新幹線ができたら信越本線はどうなってしまうのだろうか。」と誰もが不安に思っていた時代だったと思います。
そのタイミングで妙高市が信越本線の思い出を募集したことは、おそらく市役所の人たちも信越本線を将来に向けて守っていきたいという思いがとても強かったんだと思います。

そんな当時の皆様方の思いを、新しくトキ鉄にやってきた私に伝えたい。
そう思って、こんな貴重な冊子を見せてくれたのだと思います。
十分伝わっていますよ。
読んでいて涙が出るような文章がたくさんあります。
なにしろ、鉄道ファンでもなんでもない一般の方々からの文集ですから。

ということで、今後ときどきこのブログでご紹介して行きたいと考えております。

皆様どうぞご期待ください。