新幹線開業前夜

今年、北陸新幹線が開業しました。
来年は北海道新幹線が函館まで開業します。
その開業準備に伴って、「北斗星」が先月廃止にしなりました。
「カシオペア」や「はまなす」といった夜行列車も廃止されるようです。
北海道方面への交通は、今まさに、新幹線開業前夜の状況と言えると思います。
新幹線開業前夜という言葉は、だいたい後になって、開業前の状況を振り返って言う言葉ですから、来年の開業を前に、今を「前夜」と呼ぶのは正しい使い方かどうかはわかりませんが、昔々の新幹線開業前を知る身としては、今の新幹線開業前夜の状況を見ていると、いろいろ思うところがあるわけで、そういう、私が思うところを、その根拠を示しながら、若い方々にも考えていただきたいということで、秋の夜長の連休の今日は昭和の時代の新幹線開業前夜のお話です。
昭和50年3月に新幹線がそれまでの岡山止まりから博多まで延伸開業しました。
このダイヤ改正はかなりインパクトがありましたし、私も中学3年生になる春のことですから、その前後も含めて、かなり鮮明に記憶しています。
博多まで、極端なことを言えば日帰りが可能になったわけで、それまで夜行列車で一晩、いや、一昼夜かかっていたところが、日帰りできるようになったことは、当時としてはとても大きなことのように言われていました。
ちょどそのころはフォークソング全盛時代で、博多出身のチューリップというグループが歌う「心の旅」という歌が、大ヒットしていました。
「明日の今頃は、僕は汽車の中」
というその歌詞が、日本国民の心に響いたのがヒットの理由だと思いますが、つまり、「明日の今頃は僕は汽車の中」ということは、博多から東京へ夜行列車で来るということが前提なわけですが、これが新幹線になったら、味もそっけもないわけで、歌にならない。そういう意味でも世の中に与えるインパクトは大きなものでした。
それだけ、当時の20代の若者を含め、日本人には鉄道というものが生活に切っても切れないものがあったんですが、私は、「それはどうかなあ。本当ならば新幹線が博多まで行く必要なんかないんじゃないだろうか。」と考えていました。
それはなぜかというと、私がませた生意気なガキだったというのはもちろんですが、私自身は鉄道ファンはもちろんですが、それよりも時刻表ファンだったわけで、時刻表というものを朝から晩まで見ているといろいろなことがわかったからなんです。
では、その時私が考えていたことをお話しいたしましょう。

交通公社の時刻表 1973年5月号です。
新幹線の博多開業約2年前、新幹線開業前夜のものです。
これを使って「学術的」探求をしてみたいと思います。(笑)
この当時は新幹線は岡山まで。九州方面へ行かれる人は、岡山で山陽本線の特急、急行列車に乗り換える必要がありました。

新幹線から九州方面への連絡時刻表です。東京を朝6:15のひかり1号に乗っていくと、岡山でつばめ3号に乗り換えて、博多には17:17です。
この連絡時刻表を見る限りでは、東京から熊本まではその日のうちに行かれますが、長崎、鹿児島、宮崎へは乗り継ぎができません。

では、実際はどうかと言うと、例えば宮崎へ行く場合は、同じひかり1号で6:15に東京を出て、岡山で15分の待ち合わせでみどり1号、大分行に接続します。
その列車が大分に着くのが17:53。この連絡時刻表には乗ってませんが、大分で約20分の待ち合わせで、急行フェニックスに乗り継いで、宮崎には21:55の到着です。(下の時刻表参照)

新幹線からの連絡時刻表には乗っていないけど、日豊本線の時刻表を開けば宮崎に21:55に到着する列車があるのがわかりますが、新幹線からの連絡時刻表に乗っていないということは、一般の都市間輸送の中で、東京から宮崎はその日のうちに着くことができないところということですが、これが新幹線が博多まで開業すると、東京から小倉乗り換えで宮崎はその日のうちに到達できる所になりますから、宮崎県の皆さんにとっては、すごいことになりますよというのが、当時の考え方でした。


その頃の宮崎というのは、東京からだけでなく、大阪からも夜行列車で行くところであって、特急「彗星」が数本設定されていましたし、大分でも寝台車を連結した急行「べっぷ」が複数設定されていました。極めつけは急行「高千穂」。東京駅を前日の午前10時に出て、延々と走り続けて25時間後の翌日の11時に宮崎に到着しますから、これはもう夜行列車と言えるかどうか。おまけにその急行「高千穂」はそのあとさらに走り続けて西鹿児島に14:14の到着。28時間14分走り続ける列車ですから、今走っていたら大人気間違いなしの列車でしょう。
時刻表マニアとしてはさらにもう一つの列車を見逃すことはできません。



それがここに出ている急行「日南」
特急「富士」の予約が取れないお客さんや、急行「高千穂」の固い座席が耐えられない方は、新幹線接続で大阪からこの急行「日南」に乗って、指定席や寝台車、グリーン車で宮崎を目指したのです。
もちろん京阪神の方々もこういう夜行列車で宮崎を目指していたのですが、この急行「日南3号」というのが、当時、宮崎から都城までの間をC57がけん引していて、北海道の急行「大雪5号」と並んで、蒸気機関車が引く最後の急行列車と言われていた名物列車なのです。
関西圏から寝台特急「彗星」が2本、寝台車を連結した急行「日南」が3本も運転されているのですから、宮崎はすごいところだったのですが、ではなぜ、これだけのそうそうたる列車が、中にはA寝台も連結して東京、大阪から宮崎を目指していたのかと言えば、それは宮崎県の日南海岸が「新婚旅行のメッカ」と言われていたからなんですね。
フェニックスの樹が茂り、青い海が広がる宮崎県の日南海岸は、日本人が新婚旅行で行ってみたい憧れの地で、人気ナンバーワンだったのです。
これは、日本の経済成長とともに、国民の観光需要が高まってきて、昭和30年代までならば、東京の人なららばさしずめ熱海や伊豆、関西の人ならば城崎や白浜だった新婚旅行の行先が、昭和40年代に入ると宮崎になったということで、できるだけ遠くへ行きたい人間の心理をついたものでした。
そういうところが宮崎だったわけで、東京や大阪の人たちから見ると、新幹線が博多まで開通すれば、宮崎は朝出て夕方には到着する便利なところになると考えていたわけで、宮崎県の人にとっても便利になるだろうと思っていたわけです。
ところが、時刻表ファンとしての考察によれば、宮崎県というのは何も鉄道で行かなければならない場所ではありません。
同じ時代の1974年3月の全日空時刻表をひも解いてみれば、当時の輸送実態というものが見えてきます。


この時刻表をご覧いただければお分かりのように、昭和48~9年当時で、すでに宮崎へは大阪から10往復のジェット便が就航していて、これだけで片道1300人を超える輸送力になります。
東京からも直行便が4本。大阪乗継でも行かれますから、つまり、宮崎というところは当時すでに鉄道で行くところではなくなっていたのです。
でも、当時の国鉄の幹部の人たちの考えは、日豊本線宮崎電化、そしてさらに鹿児島までの電化延伸で、つまり、当時の国鉄の人たちは飛行機には乗りませんから、飛行機という発想が無いことの現われなんですね。
そしてさらに悪いことに、昭和47年に本土復帰を果たした沖縄で昭和50年に海洋博が開かれると、南国を目指す観光客というものの目が一気に沖縄に向いて、折からのワイドボディージェット機時代の到来で、新婚旅行の行先人気ナンバー1が、沖縄になってしまいました。
それが観光県としての宮崎県の凋落の始まりで、新幹線が博多まで伸び、念願の日豊本線電化が完成したころには、新婚旅行だけでなく、観光旅行も含めて、宮崎県へ行く人は本当に少なくなってしまったのです。
これが新幹線開業前夜の日豊本線の状況です。
こうして考えると、今からできる新幹線というものが、果たしてどういう使われ方をして、どうなっていくかということが、なんとなく見えてくるのではないでしょうか。
新幹線ができれば便利になる。お客さんがたくさん来てくれる。
そう言っているのは中央の人間の上から目線なんじゃないかなあ。
だって、当時の宮崎の人たちは、すでに東京、大阪からのお客さんは飛行機で来ているということを知っていたはずなんです。
知らなかったのは中央から地方を見ていた国鉄の幹部の人たちですからね。
同じ轍を踏まないようにしなければならない。
これが40年前の新幹線開業前夜から学ぶことだと私は思います。
ちなみにどうして私が1974年3月号の全日空時刻表を使用したかというと、実は、この年の3月10日に全日空初のワイドボディー機「トライスター」が就航したからで、それによって日本の航空地図が大きく塗り替わりました。
だから、ワイドボディー就航前の状況と比べなければならないと考えたのです。

これが当時の札幌線の時刻です。
東京―札幌は全部B2(B727-200)。
函館路線にはB1(B727-100)も残っていました。
これがトライスター就航後には▼

8月31日のブログに掲載したものですが、東京―札幌線はほとんどがトライスターになり、余剰となったB2を使って、函館線が増便されています。
中学生だった私はこういう見方で時刻表を見ていましたから、何時間でも見続けることができたわけです。
そう考えると時刻表というのは、時刻を調べるために見るのはもちろんですが、それだけではなくて立派な「読みもの」です。ということが少しはお解りいただけましたでしょうか。
昭和の時刻表の旅にお付き合いいただきましてありがとうございました。