消えたD52(デゴニ)を追え

昭和の推理小説のタイトルみたいですが、D52(デゴニ)というのはD52形蒸気機関車のこと。
D51よりも大型でパワーがある機関車で、最後は函館本線で活躍していました。

私は1971年、小学校5年生の時にNゲージというものを知りました。
それまではプラレールが主流で、その他にはアメリカ製の機関車が線路から電気を取って走るおもちゃは持っていましたが、Nゲージというのはおもちゃではなくて模型でした。

模型とおもちゃの違い。
それは模型はスケールモデル化されていて、本物と同じ形で縮尺を小さくしたもの。
Nゲージの場合は150分の1のスケールですから、簡単に言うと15メートルのものが10センチになるということです。

きっかけは友達のお兄さんで、彼は高校生でしたが「9ミリはもうやらないから、鳥塚にあげるよ。」と言って、パワーパック(トランス)、線路、そして車両をくれたのです。

当時はまだNゲージという呼び方は一般的ではなくて、「9ミリゲージ」と呼んでいました。
9ミリというのは線路の幅が9ミリということで、9はNineですから、いつの間にかNゲージと呼ばれるようになったのですが、その9ミリゲージの線路を突然譲ってくれたのです。

で、喜び勇んで家に持って帰って黒い枕木の線路を並べました。
一緒にもらった車両はブルートレインの電源車カニ21。
なぜかカニ21だけでしたので、畳の上に線路を敷いて、カニ21を載せて転がして遊ぶだけでした。

その時に一緒にカタログをもらいました。
関水金属のカタログで、今のように立派なものではなくて、横綴じのもっと薄っぺらなものでしたが、その中にキハのシリーズがありました。
目についたのがキハ20。
当時のNゲージはまだトミーが参入する前で、キハ20系と103系、それに20系ブルートレインに貨車が数種類といった程度のラインナップでした。
旧型客車も17メートル級のオハやオロが数両ありまして、オハは赤いライン、オロは青いラインが入っていまして、どうも戦前のコレクションのようでした。

そして、その客車を引かせる機関車がEF65‐500番台しかなくて、でもこれはブルートレイン用で、旧型客車を引かせる機関車はC50しか出ていませんでした。
カタログにはC11やC62、C57やD52など横向きのイラストでしたが、「予定品」となっているだけで、C50もすでに完売だったらしく、街中で見かけることはありませんでした。

でもって、カタログを見ながら畳に顔をつけてカニ21を転がして遊んでいたのですが、そんなんじゃ面白くありませんから、いい加減にしびれを切らして、大山に出かけて行って、商店街にある模型屋さんに行きました。
いつだったかお話ししたグリーンマックスは駅の向こうのハッピーロードにその後できましたが、私が行ったのは大山東町の区民館の手前、細川模型というプラモデルなどを売っているふつうのお店の中に、ショーケースに入って関水金属の車両が並んでいました。

友達の兄貴が一緒についてきてくれて、私は本当は103系が欲しかったんですが、

「鳥塚、お金ないんだから1両しか買えないだろう? 1両だったらキハ20がいいんじゃないか?」

そう言いますので、私は気持ちの半分は103系に残りつつも、とにかく手じゃなくてトランスで動く車両が欲しくて、半分仕方なしにキハ20を買いました。

1971年、昭和46年のことですが、当時のキハ20は電動車で1両2350円でした。
その模型屋さんは割引価格で販売していて、それでも2150円。
大きなお金です。
国鉄の初乗りが30円、駅の立ち食いそばが60円、食堂車のカレーライスが180円、東京から大阪までの新幹線が4000円ぐらいの時代です。

貯めておいた小遣いをはたいて、清水の舞台から飛び降りる気持ちで小学5年生がキハ20を手に入れたのです。

さて、時は過ぎまして、家庭を持って子供ができると(私の場合はちょっと順序が逆で、子供ができて家庭を持ったのですが)、鉄道模型などに現(うつつ)を抜かす経済的余裕がありません。でも、なんとなく気になって私は関水金属のカタログを手に入れました。
そのころにはもう1冊の立派な本になっていましたが、そのカタログに載っている車両を見ながら、
「おぉ、ずいぶん車両が増えたな。」
と思って、見るだけで楽しんでいました。

で、機関車のページを見ると、C11やD51、C62までラインナップがそろっています。

すごいなあ、欲しいなあ。

そう思っても、いつの世も同じです。
サラリーマンの小遣いでは買えませんよね。
いや、買えるかもしれませんが、そんなものを買うお金があるんだったら、もっと生活の足しになるようなものに使うでしょう。

だからね、見るだけ。

で、蒸気機関車のページを見ているとD52の絵が描かれていて、「予定品」となっている。
最初にカタログを見た時からもう10数年が経過しているにもかかわらず、相変わらずD52は「予定品」となっていて、「おいおい、いつまで待たせるんだ。」と、買えもしないのにそんなことを思ったり。

そうやって、私はNゲージのカタログを見ては妄想していたのです。

で、先日、これまた数十年ぶりにNゲージのカタログを手にしました。
ずいぶん立派になりましたよね。

早速、蒸気機関車のページを開いてみると・・・

あれあれあれ?

D52が無いではありませんか。

「お~い、D52、どこへ行ったんだ?」

ずっとずっと「予定品」だったD52が、そのまま、予定品のまま消えてしまっていたのです。

これはいったいどうしたことか?
俺が長年待ちに待っていたD52はいったいどこへ消えてしまったのか。

わかります?
この気持ち。

夢が消えてしまったのです。
まぁ、当時から予定品だった車両の多くは実際には商品化されていて、私もいろいろ買ったりもしましたが、なぜD52 だけが出ないのか?

私は長大なコンテナ車両を引いて噴火湾に沿って走るD52をやりたかったのに・・・(涙)

「若いころD52が出ても、お前はどうせ買えなかったんだろう?」

天の声がそう言っているのが聞こえました。

そりゃそうかもしれません。
だって、D52は他のメーカーからすでに出ているわけで、本当に欲しければそっちを買えばいいじゃないか。

いや、そうじゃないんですよ。
私は関水金属のD52が欲しかった。
長年「予定品」としてカタログに掲載されていたあのD52。
カタログを見るたびに、「まだ予定品のままだ」と思いつつも、いつか出たら買うぞと思っていたあのD52が欲しかったのです。

なんだかね、お金がない哀しさといいますか、お金がないまま夢が消えちまった。
そんな気がします。
でも、逆に考えれば、はじめてNゲージに触れた1971年から既に54年が経過しているわけですが、半世紀以上の歳月を夢を見させていただいたというのは、これはお金がなかったからであって、お金持ちで欲しいものがサッと手に入るご身分の人には、多分体験できないようなロマンなんですよ。

負け惜しみですが、そう思うことにしています。

で、私が最初にキハ20を買ってから54年ですから、関水金属という会社がNゲージの車両を作り始めて60年以上が経過しています。

そして、その60周年を記念して、なんとなんと、あのキハ20が、あの時のままの姿で復刻されているのです。
入っているケースまであの時のままですよ。

KATOさん、よくやってくれました。

これはうれしい!

関水金属といえば精密金型では世界一といってもいいほどの技術の会社ですから、最近では本当にディテールに凝った車両が出ていますが、50年以上前の時点でこれだけの車両を作っていたのですからね。
小学生だった私がおもちゃから模型に移行して、のめりこんでいったのですが、その原点であるキハ20が、こうして当時の姿のまま蘇ったのですから、これは当時を知る者にとっては本当にありがたい。

お金に余裕ができたら模型をやろう。
時間ができたら模型をやろう。

そう思っているうちにあっという間に月日が経って、もう目も見えなくなって、指も動かなくなりましたからそんなに細かなディテールは必要ありません。
それよりも、当時まだ現役で、全国いたるところで走っていた20系の気動車が、こうして私の手元に戻って来てくれたことが、一つのロマンの完結のような気がします。

こんな模型ひとつでこれだけ幸せな気分になれるのですから、鉄道趣味というのはありがたいですね。
そして、お金の使い方としては決して間違ってはいなかったと、当時、清水の舞台から飛び降りたつもりで大枚2000円を払った小学生は、半世紀たった今、自分がやったことが正しかったと思うのであります。

それにしても、私のD52はいったいどこへ行ったのか・・・

D52を追う旅はまだまだ続きそうな今日この頃です。